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心の時空

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a day in my life

カテゴリ:人生/愛(Love)( 39 )

日本経済新聞を読んでいたらジャック・マイヨールに触れた記事があり、彼は、日本人の友人に「世界で死の文化が、一番進んでいるのは日本だから、日本で勉強がしたい。」と言っていたそうです。
a0212807_1145405.jpgジャック・マイヨール(1927~2001自死 享年74才)は、日本の海と日本の文化(とくに座禅)を愛したフランス人でした。
1927年上海に生まれたジャック・マイヨールは、6才の頃から家族と一緒に夏の休暇を唐津の海で過ごしました。
10才の夏、唐津の海(七ツ釜)で初めてイルカに出会った体験は、ジャック・マイヨールの人生に大きな影響を与えました。
ジャック・マイヨールは、‘フリー(素潜り)ダイバー’として世界的に有名になっても機会あるたびに自分の人生の原点である唐津を訪ね「「私は、唐津に完全に魅了されています。ここに来ると家族を思い出し初めて会ったイルカを思い出すのです。」と述べています。
ジャック・マイヨールについては、フランスの名映画監督リュック・ベッソン(1959~)の映画「グラン・ブルー」(1988)を見ていただくと良く分かります。
ジャック・マイヨールは、49才のとき(機材を一切付けない)素潜りで100メートルの世界記録を作りました。
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さらに55才のとき自らの素潜り世界記録を更新、105メートルという前人未到の素潜り世界新記録を作りました。
潜水は、常に死と隣り合わせで、より深く潜れば、それだけ死に近くなり死を意識すると言われています。
ジャック・マイヨールは、潜水する前、長い時間座禅を組んで瞑想していました。
生前ジャック・マイヨールは、「地球上の生命は、みんな海から生まれた。地球がすべての生物の母であるとす
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れば、海はその子宮である。」と述べています。
2001年ジャック・マイヨールは、イタリア、エルバ島の自宅で自死、74才の生涯を自ら閉じました。
ジャック・マイヨールの遺骨は、トスカーナの海に散骨されましたが、唐津から玄界灘を見ていると唐津の海にも還してあげたかったと感傷的な気持ちになります。(上写真2枚:唐津 七ツ釜の海)
by blues_rock | 2013-08-10 00:39 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
a0212807_1004875.jpg私に四季折々の季節の変化を教えてくれたのは、‘田圃(たんぼ)’でした。
田植え前の「田圃に降る雨」を心象風景(油彩画)にしました。
油絵狂いをしていた学生のころの懐い出です。
        ◇
a0212807_1005793.jpg下の絵は、同じころに描いた「水溜り」です。
学生のころ寝食を忘れて油絵を描いていました。
西鉄電車の中で気分が悪くなり、久留米駅に駆け込み気を失ったこともありました。
なんであんなに夢中になれたのか、自分でも不思議で、狐憑(きつねつ)きだったのかもしれません。
by blues_rock | 2013-08-07 00:41 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
1945年(昭和20年)8月9日8時15分、人類最初の無差別殺戮行為である‘ウラン型原子核爆弾’が、日本の広島に投下されました。(詳細はこちら
そのわずか6日後、軍の支配した旧日本帝国は、連合国に対し全面無条件降伏を受け入れ敗戦しました。
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1945年(昭和20年)早々から日本全土が、アメリカ空軍の爆撃を受け、3月の東京大空襲に続き、沖縄が焼かれ‥そして8月広島と長崎に原子爆弾が投下され、非戦闘員である女性や子供たちを殺戮し、同時に日本の歴史と文化の佇(たたず)まいを残していた旧い街並みも一瞬のうちに壊滅しました。
それから68年‥現状を的確にとらえる明晰さ、是非を判断し決断遂行する勇気が、いかに大切なことであるかを私たち新世代の日本人に悲惨な歴史が、静かに教えています。
by blues_rock | 2013-08-06 08:15 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
日本経済新聞(平成25年7月7日)の読書欄「リーダーの本棚」に、三菱ケミカルホールディングス社長小林喜光氏の愛読書が、紹介されていました。
a0212807_12111100.jpg私が、びっくりしたのは、同氏の‘座右の書’に、原口統三遺稿集「二十歳のエチュード」(こちら)とあったからでした。
小林喜光氏の読書歴は、ご自身の精神と哲学(生きる意味)を求めた放浪の旅のようでした。
実業家にして大企業社長小林喜光氏の‘座右の書’が、原口統三(19才9か月自死)の「二十歳のエチュード」には、正直驚きました。
「リーダーの本棚」の最後に小林喜光氏は、こう結んでいました。
「生きることの本質が、いまだに分からない。その問題に絡め捕られないように、猛烈に仕事をするんです。原口統三のような夭折(ようせつ)も美しいが、ある意味不遜でしょう。老いさばらえても汚い自分を持ち続けて生き抜くほうが、男らしいのではないか。それもしょせん自己愛ですが。私が、今一番好きな言葉は‘死ぬまで生きる’です。美的な死などない。心臓が動く限り生きることです。」
by blues_rock | 2013-07-07 11:21 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
a0212807_127291.jpg上野公園とその周辺には、国立西洋美術館・都立美術館・上野の森美術館・東京国立博物館・東京芸術大学美術館があり、上野は、明治政府の文明開化政策により近代日本の美術の中心地として発展しました。
私も東京に居るころ、上野の各美術館所蔵の常設展や美術館が、企画した特別展を見によく行きました。   (上写真:東京国立博物館、下写真:東京文化会館)
古美術(とくに古陶)に興味を持つようになると行き先は、もっぱら東京国立博物館になりました。
a0212807_1293791.jpg東京国立博物館に寄贈された横河コレクション、広田コレクション、松永コレクションの古陶磁の逸品をいつ訪ねても目の前でゆっくり見ることがてきました。
仕事のお付き合いで上野公園内にある由緒ありそうな老舗の料亭に一度だけ上がりましたが、店の名前も料理も憶い出せません。
私には、東京文化会館2階レストラン‘上野精養軒’のハヤシライスのほうが、懐かしく、また上野に行くことがあれば、久しぶりに食べてみようと思います。
by blues_rock | 2013-06-03 00:50 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
先日の「吉祥寺~懐かしい東京」で少し触れましたが、私は、平成14年(2002年)3月から平成20年(2008年)3月までの6年間を西東京市富士町で暮らしました。
a0212807_2117880.jpg西東京市は、2001年田無市と保谷市が、合併した新しい市です。
西東京市は、公園が多く、大小合せると50か所くらいあります。
住宅地域には、武蔵野の面影を残す緑地や多くの巨木があり、これを市は「碧山森緑地保全地域」・「保谷北町緑地保全地域」として指定し保護しています。
a0212807_21182716.jpg私の生活圏は、西武新宿線沿線で最寄りの東伏見駅を挟み武蔵関駅、柳沢駅・田無駅の周辺に多くの憶い出が残っています。
東伏見駅と武蔵関駅の南に広がる武蔵関公園は、緑が多く、木々に覆われた池のまわりに遊歩道があり、私のウォーキング・コースでした。
東伏見駅の南には、早稲田大学東伏見キャンパスと野球場・運動場・テニスコートがあり、ウォーキングの足をa0212807_21193028.jpg止め、練習風景を眺めることもありました。
柳沢駅の南口前には、市立図書館があり、ウォーキング途中に立ち寄り新聞や雑誌を読んだり、本を借りたりしていました。
田無駅の北には、東京大学田無キャンパスと広大な東京大学農学部の農場がありました。
生活クラブ生協の西東京デポー(店舗のこと、下写真)の立ち上げと運営を2年間とはいえ手伝えたのが、東京最後の懐かしい憶い出になりました。
a0212807_21303914.jpg西東京市で住み続けることも考えましたが、望郷の念断ちがたく、平成20年(2008年)3月下旬、東京を離れ、福岡市南区の山裾に移住しました。
by blues_rock | 2013-06-02 00:08 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
a0212807_934435.jpga0212807_9381939.jpg私が、最初に銀座に出会ったのは、中央通りを銀座1丁目から8丁目までフリーウォークにしたイベント‘歩行者天国’でした。
遠い昔のことですが、その時、銀座で感じた解放感は、今でも忘れません。
私は、学生時代の4年間、入部した美術部のアトリエで油絵ばかり描いていましたので、専攻した経済学の講義には、ほとんど出席しませんでした。
記憶は定かではありませんが、確か大学1年生の夏休み、久留米駅から東京行き夜行寝台急行に揺られて上京し、東京駅に着くとその足で美術館に向かい、2、3日の短い東京滞在期間中に、銀座の画廊という画廊を回りました。
a0212807_9391978.jpgその後大学を卒業し就職、福岡に5年勤務の後、転勤で東京へ、職場が、大手町にあったこともあり、地下鉄丸の内線で1駅の銀座は、私にとって身近な街になりました。
仕事の帰り「銀巴里」(こちら)に良く行きました。
地下鉄銀座駅から泰明小学校前を通り過ぎ、山手線高架下にぶつかると左に折れ30mくらい行くと地下に「ケネディ・ハウス」というライブハウスがあり、時々行きました。     (下写真:銀座のとなり日本橋「ますたに」私の一押しラーメン、美味しい!)
a0212807_94068.jpg数寄屋橋のカラオケ店、銀座3丁目のロック・バー、銀座・日比谷・有楽町の映画館、ビヤホール「ピルゼン」(2001年9月閉店)、銀座8丁目の長崎ちゃんぽん「吉宗(よしそう)」など‥私の銀座の思い出は、当時の記憶とシンクロナイズして懐かしく胸の奥に残ります。
by blues_rock | 2013-05-26 09:30 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
吉祥寺の街には、JR中央線と東急井の頭線の吉祥寺駅北口にある昔ながらの「ハーモニカ横町」など庶民的な商店街や駅南口の‘ラーメン通り’など飲食店が、密集しています。
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どの路地の店にも庶民的な活気があって、店主・店員・お客お互いに気取りがなく、吉祥寺という街で共生し、日々の暮らしを楽しんでいる雰囲気がありました。
a0212807_21413025.jpg吉祥寺駅南口から丸井デパート横の狭い通りを抜けると「井の頭公園」が、あります。
公園のまわりは、閑静な住宅街で、公園に入ると井の頭池と御殿山の木々の緑が、美しく、吉祥寺市民のオアシスになっています。
公園の中を散歩する人、池のまわりをジョギングする人、ライブをする若者と井の頭公園は、自由な解放感に包a0212807_21415563.jpgまれていました。
私は、西東京市に6年居ましたので、近くの吉祥寺には、頻繁に行きました。
また定年前の半年間、下高井戸にあった‘生活クラブ生協市民セクター政策機構’が、私の職場でしたので、バスで吉祥寺まで行き、井の頭線吉祥寺駅から京王線下高井戸駅まで電車で通勤していました。
a0212807_21504275.jpg吉祥寺の映画館やライブハウスにも行きました。
駅ビル地下のイタリアン・バー(店の名前は忘れましたが)は、リーズナブルな値段でワインも料理も美味しく、ベーシストの友だちと開店から閉店まで飲み続け‘レゲェ(ボブ・マリー)’ のことを語り合いました。
甘党ではない私が、吉祥寺駅ビル内の食品街にあった「吉祥寺キハチ」のソフトクリームには、魅了されました。
by blues_rock | 2013-05-25 00:10 | 人生/愛(Love) | Comments(2)
a0212807_2155352.jpg私が、東京に住んでいたころ、時どき浅草を訪ねては、浅草界隈をよくブラつき回りました。
浅草寺の境内は、言うに及ばず、地下鉄銀座線浅草駅を出てすぐの‘神谷バー’で電気ブランを飲んだり、交差点を渡り隅田川沿いに少し歩いた駒形橋のすぐ先にある老舗‘駒形どぜう’(こちら)でドジョウ鍋をつついたり‥浅草には、下町独特の庶民的な食堂や粋な小物屋が、ありました。
合羽(かっぱ)橋道具街には、厨房器具や調理道具、食器類など料理・製菓用品の専門店が、ずらり並び、店を眺めてまわるだけでも退屈しませんでした。
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浅草寺の仲見世は、いつも多くの観光客で賑わい混雑していましたので、あまり近づきませんでしたが、金龍山門につるされた大きな雷門提灯は、やはり浅草の風情を表わすシンボルでした。
a0212807_21584183.jpg私のお薦め観光スポットは、吾妻橋を向島側に渡るとすぐ左に見えるアサヒビール本社22階のラウンジです。
冷えたビールを片手に目の前に広がる隅田川の流れを眺めたり、東京の街並みを遠望したり、夜ともなると大都会東京に満ちる光の海をぼんやり眺めたり、ひと時の息抜きでした。             (上写真:中央のビル22階ラウンジから眺めた下写真:浅草と隅田川)
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今では、押上にスカイツリーができたので、浅草の空もいぶん様変わりしただろうと推察します。
浅草は、懐かしい東京のまま、私の心に残しておきたいと思います。
by blues_rock | 2013-05-23 00:45 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
私は、1982年2月から1987年1月まで神奈川県大和市下鶴間で暮らしました。
仕事の関係上、営業車を運転することが多く、私は運転中、いつもカーラジオを聴いていました。
a0212807_22354058.jpg神奈川県大和市の近隣には、座間・厚木・横須賀・横田・福生とアメリカ軍基地やキャンプが、いくつもありました。
この地域をカバーするアメリカ軍関係者向けのラジオ放送局FEN(ファー・イースト・ネットワーク)があり、英語は、チンプンカンプンながらもアメリカ最新のロックや日本では聴けないトラディショナルなブルースなどが、軽妙なディスク・ジョッキーのMCとともに流れていました。
a0212807_22401471.jpg自宅でもFENでハードロックやブルースの番組放送時間を憶えて聴いていました。
当時デビューしたばかりのボンジョビをFENで初めて聴いた時、車を運転中の私は、そのまま中央林間のレコード店へ向かいました。
FEN番組の中でも一番のお気に入りは、「ウルフマン・ジャック・ショー」(こちら)でした。
DJウルフマン・ジャック(1938~1995)のノド(声)とノリの好いMCに強烈なインパクトがありました。
彼の番組で流れるハードロックやブルースもクールでした。
by blues_rock | 2013-02-20 00:32 | 人生/愛(Love) | Comments(0)