「生きものの記録」は、黒澤明監督(1910~1998没、享年88歳)が、1955年、45歳の時に撮った、モノクロ、スタンダード作品です。

黒澤監督は、1952年に傑作「生きる」(志村喬1905~1982没、享年75歳、黒澤監督の21作品に出演)で、社会問題(行政批判)を シリアスに撮り、1954年「七人の侍」では、弱者に対する 理不尽な暴力支配への抵抗を 斬新かつダイナミックに描き、1955年、黒澤監督は、1954年アメリカによる 南太平洋ビキニ沖での 水爆実験で被ばくした日本のマグロ漁船 第五福竜丸事件を看過できない重大問題として 反戦(反核実験)をテーマにした「生きものの記録」を撮りました。
この映画の見どころは、主演した当時 35歳の三船敏郎(1920~1997没、享年77歳)が、原水爆実験への脅威を感じ「死ぬのはやむを得ん、だが殺されるのは嫌だ!」とその恐怖に怯える 70歳の鋳物の町工場を営む 中島喜一を怪演、この表現が、ピッタリしている 演技の迫力です。

喜一は、地球上で安全な場所が、ブラジルしかないと考え、家族に一切相談せず家族全員の移住を計画、父の突拍子もない計画に 猛反対する 息子たち娘たちから 裁判にかけられた喜一は、準禁治産者になりました。

喜一の移住計画は、頓挫、家族を前に手をついて ブラジル行きを懇願するも 興奮錯乱して倒れました。
夜更けに意識を取り戻した喜一は、鋳物工場に放火、家族が、駆けつけた時、工場は、全焼していました。

そして、喜一は、精神病院に収容されました。
裁判を通じて喜一の 監査員の一人であった 歯科医原田(志村喬)が、しばらくして精神病院に見舞いに行くと、

喜一は、明るい顔で原田を迎えました。
喜一は、地球を脱出して自分が、今居るのは、地球外の惑星と信じていました。

病室の窓から見える太陽を喜一は、原田に「地球が、燃えとる!」と叫びました。
面会を終え病室を出て、病院の階段を下りる原田とすれ違うように、階段を上がる 幼い子供を背負った喜一の

四妾(四人目の愛人)朝子(根岸明美 1934~)が、交差するエンディングは、映画史に残る秀逸なシーンです。