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心の時空

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a day in my life

鵜の目、鷹の目、唐津の目

鵜の目、鷹の目、唐津の目_a0212807_01162685.jpg私が、10年前に ‘金継ぎ’ を始めたのは、東京で暮らしていたころ、博物館や美術館で見た「古唐津茶碗の金継ぎ」に惹かれたからです。
東京では、決して手にすることのできなかった ‘古唐津’(もちろん ワレ・カケ、陶片ですら高価すぎて)でしたが、さすが唐津に近い福岡、私でも購入できるくらいの程好い古唐津のキズ茶碗や陶片をずいぶん見つけました。
それから 10年余りが、過ぎ ‘金継ぎ’の知名度も上がり、金継ぎ教室も増え、金継ぎ用の金紛の価格も 今や当時の 2倍です。
当然、古唐津の陶片、今や陶片も 埋蔵文化財なので 山で拾ってポケットに入れても犯罪、落ちていたものを拾って犯罪とは、何とも馬鹿々しい話ですが、あまり出回らなくなり、また骨董店などに出回っている古唐津陶片は、古陶窯発見のプロが、見つけた盗掘品(?)でしょう、きっと。
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古唐津好きの私が、推察するに、佐賀県唐津市の西から伊万里、松浦エリア、武雄、有田、そして長崎県の平戸、波佐見あたりの山中に、秀吉の朝鮮出兵以前(室町時代)から古窯は、数多く存在し、まだまだ知られざる古唐津陶片が、木々の生い茂った山の奥深く、無数に眠っているのではない鵜の目、鷹の目、唐津の目_a0212807_01164773.jpgか、と思っています。
秀吉が、天下人となり、九州を支配する1587年以前から、現在(いま)の唐津、伊万里、松浦地域(有田など)、武雄、平戸一帯を支配した豪族で海賊(=倭寇 わこう、海上交易水軍)であった松浦党波多氏は、鎌倉から室町時代、その3百年の間に、中国(明)と李氏朝鮮との海上交易(朱印船貿易、もちろん海賊行為も含め)の利益を独占 し、山城の岸岳(きしたけ)城が、ある山裾(いまの唐津市北波多)を中心に渡来した朝鮮人が、暮らしてたと推察します。
この一帯の古唐津窯では、移住民である朝鮮陶工たちが、食器や甕・壷などの生活雑器を焼いていただろうと思われ、朝鮮半島に近い玄界灘沿いの 唐津から松浦、平戸一帯で窯業を営んでいたと思われます。
前述のとおり九州を制圧した秀吉は、1591年 唐入りのため(明の首都 北京へ入城し天皇家を移し遷都しようと
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本気で考えていましたから)、唐津に名護屋城を築城、1592年に 16万の大軍を、1597年に 14万の軍勢を朝鮮半島に出兵させました。
その準備として秀吉は、1588年 海賊停止令を出し、朝鮮へ大軍を送るために、倭寇や海上交易で東シナ海を鵜の目、鷹の目、唐津の目_a0212807_01182373.jpg知り尽くした松浦党水軍を海上輸送の軍事に利用するため松浦党波多氏を唐津から追放しました。
1598年、秀吉が、没すると 無理やり朝鮮出兵させられた厭戦気分の諸大名は、すぐ兵を引き揚げました。
そのとき茶の湯を愛し嗜んでいた茶人大名は、朝鮮陶工たちを競って連れ帰り、藩主命で朝鮮陶器を作らせ始めました。
この時から九州各地の窯で “茶陶”の焼成が、始まりました。
佐賀鍋島藩は、‘有田’で、朝鮮陶工の李三平が、白磁鉱を発見すると、1637年 民間窯禁止令を出し、唐津・松浦・武雄・平戸一帯での窯業を全面禁止、鍋島藩の先端産業として窯業を育成、そのノウハウを企業秘密として厳重に管理監督しました。
当時、中国の景徳鎮窯が、世界最大の磁器生産地でした。
鵜の目、鷹の目、唐津の目_a0212807_01183037.jpgしかし、明の滅亡(1644年)により、景徳鎮窯の磁器が、取扱できなくなった中国の貿易商人やオランダの東インド会社は、佐賀鍋島藩の ‘有田窯’ に目を付け 鍋島藩に磁器製造を依頼、有田で生産した景徳鎮仕様の染付磁器(青花=呉須)を 伊万里港から東南アジア・中東一帯・ヨーロッパの王侯貴族・富裕層を顧客とした市場へ輸出、当時の日本の磁器が、中国景徳鎮にとって代わり「日本の古伊万里」として珍重されました。
閑話休題、古唐津の話が、脱線してしまいました。
1637年の 唐津窯廃止(民間窯禁止令)は、「岸岳(きしたけ)崩れ」と呼ばれ、唐津周辺の広域なエリアで 陶窯業を営んでいた陶工たちは、有田へ強制移住させられるか、追放されました。
1637年を境に古唐津は、藩に厳重に管理され、前期唐津(いわゆる古唐津)と 後期唐津(藩御用達の献上唐
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津)と、その作風は、明確に変化しました。
ちなみに、すでに武雄から有田の周辺で焼成されていた「古伊万里」も、1637年以前に焼成された古伊万里を「初期伊万里」(1610~1637、27年間だけ焼成)として、明確に区分しています。
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古唐津の民窯が、途絶えて 3百年余り、古唐津陶の魅力は、「景色(けしき)」・「土味(つちあじ)」・「手ざわり」・「映り(うつり)」・「古色(こしょく)」にあります。
この古唐津の魅力(特長)を現代に蘇らせたのが、人間国宝となった中里無庵(1895~1985、12代中里太郎右
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衛門)と同時代の名陶工 西岡小十(1919~2006)です。
日本の歴史を俯瞰して「唐津の窯業」を眺めると、古唐津を見る目が、大きく変わるかも知れませんよ。
(付録)掲載写真は、最近、私が、金継ぎ用にリサイクル・ショップで購入した掘り出し物の 現代唐津窯の鉢と皿(縁にカケあり)、コーヒーカップです。

by blues_rock | 2020-06-10 01:10 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
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