希望のかなた シネマの世界<第801話>
「ル・アーヴルの靴みがき」と同様、アキ・カウリスマキ監督の筋金入りの‘人間哲学’が、貫かれ‘すばらしい!’ の一言です。
カウリスマキ監督の名匠たる所以(ゆえん)は、映画を見る人に ‘これでもか’ と言わんばかりの、冷酷ならびに非人間的なシーンばかりを押しつける映画が、社会主義レアリズムを標榜する映画のような(プロバガンダ傾向映画のごとき)作品となり表現する力が、反って弱くなる(普遍性を喪失しつまらなくなる)ことを先刻ご承知でした。
カウリスマキ監督の演出は、社会の底辺で生きる様々な人たちの温かいやさしさと彼らの何気ない善意をブラックなユーモアや吹き出すようなギャグに塗(まぶ)しながら、この映画を見る人の心が、‘ほんわか’ なるように、そしてそんなヒューマンな彼らの対極にいる暴力的な連中の悪行を辛辣に描いています。
主人公であるシリア難民の青年カーリドを演じたシリア人俳優のシェルワン・ハジ(1985~、ダブリン国際映画祭最優秀男優賞を受賞)のリアリティある演技が、見事でカウリスマキ監督のキャストへの目利きは、相変わらず秀逸です。
劇中でシリア人難民のカーリドと関わるヘンテコなレストランのオーナーとなるヴィクストロムを演じたフィンランドの名優 サカリ・クオスマネン(1956~、2002年映画「過去のない男」)ほか登場する人物は、カウリスマキ映画の常連俳優たちで、ヘルシンキの街で暮らす、どこかヘンながら温かくやさしい心を持つ市井の人びと(庶民)を見事に演じています。
シリア内戦の被災都市アッポレで、家族を反政府軍のミサイルあるいはシリア政府軍かEU空軍の空爆で殺されたカーリドは、生き残った妹と二人、難民となり戦火を逃れシリア国境を越えるもハンガリーで妹と生き別れてしまいました。
内戦ですべてを失い、ただ一人の家族となった妹を捜しながら、難民を排斥する東欧諸国を転々としてカーリドが、追放され偶然逃げ込んだ貨物船は、石炭を積んだフィンランドのヘルシンキ港に向かう船でした。
積荷の石炭の中に匿(かく)ってくれた船員から「フィンランドは、善い人たちが、暮らす良い国だから」と聞かされていたカーリドでしたが、他のEU諸国と同様、フィンランド政府もまた木で鼻をくくるような態度で、あっさりとカーリドの難民申請を却下しシリアへ強制送還する措置を彼に宣告しました。
ここから、カウリスマキ監督滋味の人間劇が、テンポ良く展開して行きます。
難民収容施設からの脱出を手伝うスタッフ女性、難民仲間のイラク人青年、街をさまようカーリドに手を差し伸べるレストラン主のヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)ほかやる気を感じない無愛想なレストランの従業員などのやさしさ、と同時に難民を排斥し暴力をふるう街のチンピラや難民の命を狙うネオナチらのいるヘルシンキで懸命に妹を捜すカーリドにイラク人青年からエストニアの難民センターに妹が、いるとの知らせを受けました。
映画の要所に流れるストリート・ミュージシャンの演奏するブルースが、効果的で私は、個人的になぜかレストランの壁に掛けられているジミ・ヘンドリックスの写真が、印象に残りました。
難民のカーリドに人に与えるお金などないのに彼が、ストリート・ミュージシャンや物乞いの女性に小銭をあげるシーンが、何度も登場します。
ここにもカウリスマキ流の人間哲学「自分にできることの実践」が、顕われています。
敢えて私の感想を述べれば、もう一人の主人公ヴィクストロムが、ポーカー賭博で大勝するシークエンスとヘンチクリンなスシ店にレストランを改装して当然失敗するシークエンスは、たいへん面白いのですが、カウリスマキ監督のサーヴィス精神過剰のように感じました。
映画のラストで妹に再会したカーリドが、ヴィクストロムから提供された隠れ部屋の前でネオナチに刺され重傷なのに、朝早く妹を難民申請センターに連れて行き別れるシーンと朝日の中で横たわりヘルシンキの海を見ながらタバコを吸うシーン ‥ そこにレストランで飼っていた犬のコイスティネン(カウリスマキ監督の愛犬だとか)が、彼を捜していたように駆け寄ってきて顔を舐めまわすシーンで映画は、終わります。
シリア難民の青年カーリドの「希望のかなた」を象徴するかのような実に上手いカウリスマキ監督脚色(監督の哲学表現)のエンディングで印象に残りました。
知りませんでしたー
コメント、ありがとうございます。
アキ・カウリスマキ監督は、大の親日家であると同時に大の愛犬家のようで「ル・アーヴルの靴みがき」の時の犬も愛犬のようです。
私は、アキ・カウリスマキ監督の作品を10作品くらい見て、やっとフルネームを憶えました。
兄のミカ・カウリスマキ監督の「旅人は夢を奏でる」もなかなかの秀作でした。