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心の時空

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a day in my life

里山からの手紙(2012年春)

私の友人から、九州の里山で暮らす家族についての身につまされる話が、手紙で届きましたので、前文を省略してご紹介します。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_0485874.jpg
(以下、本文から)
私の住む里山に、旧家の農家があり、二人の成人した息子がいます。
兄は、十数年前、東京の一流大学を卒業するとコンピューター関連企業に就職しました。
両親は、厳しい農業収入から生活を切り詰め、長男に毎月仕送りをしていました。
次男の弟は、専門学校を卒業したばかりで、すでに就職が決まっていましたが、両親から長男が、家を出て後継ぎが居ないので、次男に、先祖からの農家を継ぐよう説得され、不承不承(ふしょうぶしょう)就職先に断りを入れ、家業である農業を継ぎました。
それから、その農家は、長い間安定し平和な暮らしが、続いていました。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_0504179.jpgところが数年前に突然長男の兄が、里に帰って来ました。
会社が、倒産したとのことで、妻子を連れて故郷に戻って来たのです。
すでに弟にも家族があり、年老いた両親とも同居し、家業の農業を継いで、里山でも指折りの優秀な篤農家に、成長していました。
弟は、兄のように東京の大学で学んだわけではありませんが、彼の真面目で温厚な人柄は、田舎では評判が良く、となり近所や農業者仲間とも親しく交わり、地道ながら平穏な暮らしをしていました。
突然の長男家族の帰郷ではありましたが、年老いた両親は、長男の家族を無条件で受け入れました。
里山で、仕事のない兄は、しばらくすると家業である農業を手伝ううちに、弟の営農に割り込んできました。
唐突な後継者交代の兄の申し出に、弟は不承知でしたが、両親は一家をあげて戻って来た長男の、田舎での立場を哀れみました。
何よりも老いた親は、長男家族が実家を頼って戻って来てくれたことを喜び、快く受け入れました。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_0514880.jpg今でも田舎の旧い農家では、長男が家を継ぎ、先祖の墓と農地の跡取りとして、世代交代していくが、古くからの生業(なりわい)です。
ところが、この家では、跡取りの交代で、今までと家業の農業のやり方が、一変しました。
東京で学んだ知識と東京の情報が、最先端だと信じていた兄は、里山の農業を古いと決めつけ、先祖代々培われてきた田舎の風土を軽んじて、地域の仲間と協調しようとはしませんでした。
日々の暮らしでも、となり近所と親しく交際しようとはしませんでした。
次男の弟は、自分の営農する棚田の稲や富有柿、そしてレンコンなどの農作物について、生育や作柄をいつも仲間と意見交換していました。
交代した後継者の兄は、収穫した農産物を自分の得意分野であるインターネットで遠くの顧客へ直接販売する方法を考えました。
しかし、棚田での稲作の水管理が分からないばかりか、富有柿の木の手入れやレンコンの堀り方を知らない兄は、毎年刈入れた籾(もみ)が不揃いで、品質の劣る米や、堀り傷の付いたレンコンを収穫していました。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_0533942.jpg家を出て近くに住む弟が、兄の農業を手伝っていましたので、何とか商品に仕上げ、都会で流行りの無農薬や有機栽培の農産物として、田舎では、画期的なネット販売に成功したのでした。
これからは、原油高で富有柿は、儲からないと判断した兄は、初夏になり、すでに青い実が付いた生育途中の富有柿の木の手入れを放棄してしまいました。
「桃栗三年、柿八年」といわれるくらい柿が、成木になるまでには、多くの時間が必要です。
弟が、長年にわたり丹精込めて生育していた富有柿の畑に、兄は手を入れるのを止めました。
弟は、兄に反発し、自分のキャリアである農業経験から意見を言いますが、兄は耳を傾けようとしませんでした。
見かねた親は、わずか数年の農業経験しかない素人同然の長男に、意見しましたが、長男は、頑として親の意見も聞きませんでした。
そういう人間世界の諍(いさか)い中でも、長年手入れされてきた富有柿は、哀しいかな‥人間から、放置された年も、木いっぱいに、朱い実を付けました。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_12241456.jpg実った柿は、熟してもなお収穫されないまま放置され、秋も過ぎ、霜の降りる季節の冬を迎えても柿は、木になったままで、ついに腐敗してしまいました。
正月に、私が見た柿畑の富有柿は、見捨てられたまま枝にしがみ付き、雪の舞う冬空に寒々とした里山の光景を映していました。
その柿畑の回りにある畑の持ち主たちは、堪(たま)らず、農業者仲間であった弟になんとかしてくれと、何度も苦情の申入れをしたそうです。
当然のことながら、無農薬・有機栽培は、生育途中の消毒や草刈など手入れ一切をしませんので、その柿畑には、腐敗したカビの病気や害虫被害などが集中し、冬場はエサを求めて、野鳥が大挙して押し寄せました。
まわりの畑からは、何度消毒しても病気が入ってしまったと、友だちの農業者仲間から嘆かれた弟は、仲間の前でうなじを垂れるばかりで‥もう自分には、権限がないからとただ詫びるだけだったそうです。
ついに、弟は町に住む親戚を頼り、就職するために里山を出て行きました。
里山からの手紙(2012年春)_a0212807_152435.jpgこれも当然の成り行きながら、次男の弟は「親に騙(だま)された」という言葉を農業者仲間に零(もら)していたそうです。
この話しを聞いていた私が、ふと窓の外に目をやると、窓からその柿畑が、眺められました。
人間の都合で見捨てられても、木から落ちもせず、赤黒く腐ったままの富有柿の実が、どんよりとした冬の寒空にびっしりと木にしがみ付いていました。
しばらくすると里山の雪も止んで、きれいに晴れあがり、正月の青空にその光景は哀しいというより、私の目には、これからの里山での人間模様が予想され、反って不気味に映り、心痛みました。(筑紫里子)
by blues_rock | 2012-02-26 01:08 | 柏原生活/博多叙景 | Comments(0)
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