陶芸好きの友だちから陶芸の本を数冊もらった中の一冊です。
「陶芸家 Hのできるまで」は、博報堂のCMプランナーにしてコピーライターの林寧彦氏(1953~)が、まさに企業戦士(月 100時間の残業が、普通)で 不惑40歳前の無趣味な自分を顧み、奥方の「陶芸しようかしら」の一言に「オレも始めるかな」と言い出すと奥方から「夫婦で同じ趣味なんてみっともない」からと 身を引かれ林氏一人で近所の陶芸教室に通い始めるところから本は、スタートします。
タイトルにある ‘H’ は、博報堂在職中いつも業界の人たちから ‘Hの林さん’ と呼ばれていたことから ‘林のH’ とダブルミーニングにして 本のタイトルにしたそうな、元コピーライターらしくシャレたタイトルだなと思いました。
林夫人は、TV局のディレクターのようで、本の中で紹介される二人のエピソードが、とても愉快で 奥方は、相当クールでドライな方のよう、その夫婦の間合いが、傍目には、抜群で 陶芸を始めて 4年目の 1995年、42歳の時の福岡への転勤辞令は、ショックだったらしく 収入の充てもないまま陶芸家へ転身が、頭をよぎるも、彼の「会社を辞めたいと思う」の言葉に 奥方は、一人娘が、まだ小学 5年生で家のローンもあるのに、あっさり「あっそう、辞めれば」と返事、仕事に未練のあった彼は、あまりあっさりした返事に 肩透かしを食い、単身赴任を決意しました。
陶芸の都(くに)九州、その中心都市 福岡での 5年の ‘単身赴任’ 生活 は、彼の人生を大きく変え、陶芸家への道を本格的に向かわせることになりますから「人間万事塞翁が馬」で、人生何があるか、分かりません。
彼の福岡への単身赴任を巡る娘のエピソードも面白く、小学5年生の娘の勘違いから 泣かれるところが、可笑しくて思わず、笑ってしまいました。
娘の友だちの母親が、「お父さん、左遷(させん)させられたのね」と 自分の娘に言っらそのことを そのまま仲良しの彼の娘に伝え、1995年当時は(阪神淡路大震災発生の年、このことも林氏の人生観を変えている)、どの企業も 単身赴任制度を導入し始めたばかりの頃で、まだ ‘させん’ の意味さえ知らない彼の娘が、「もうお父さんと会えなくなる」と思いこみ、いつも父親のハグを避けるクセにその時は、涙を流しながら強く抱きつき離れなかった(左遷とは、遠くの刑務所か施設みたいな何かに入ることで、もう会えないと勘違
いしていたらしく)とのエピソードに 私も胸キュンしましたが、単身赴任後、定期的に千葉県の自宅に帰ってくる父親に「なあんだ、出張みたいなものなんだ。」と父親の部屋を狙っていた娘は、大層不満そうであったとか、それが、とても可笑しくて笑ってしまいました。
林氏は、福岡の単身赴任用マンションを陶芸工房に変え、朝出勤前、夕方定時帰宅後、本格的に陶芸に励みました。
職住が、接近したことで 徒歩通勤となった彼は、自然を見る自分の目が、がらりと変わったことに気付きました。
単身赴任から 5年後の 2000年、東京本社へ帰任するも 彼にとって陶芸は、もう自分の人生にとって不離一体のものになっていて 津田沼の自宅近くに工房を持ちました。
そして林氏は、2年後の 2002年、陶芸収入の当てなど まったくないにも関わらず、あっさり博報堂の早期退職優遇制度を利用し退職しました。
この自宅近くに工房を持つまでと 早期退職までの紆余曲折が、これまた抜群に面白く、奥方の言うこと 為すこと辛辣で 手厳しく彼より一枚上手ながら、こんな女性ならたぶん男性は、離れて行かないだろうなと思いました。
さらに彼女から「優遇退職のお金、いつまでも 後生大事に取っておくんじゃないわよ。 そういう みみっちいの、大嫌い、3、4年で全部使っちゃいなさいよ、自分のために。」と言われたとか、彼が、自分の生命保険を解約するエピソードでも「もうお金、残さなくていいからね。 それより健康に気を付けてよ。」と林氏いわく、奥方が、めずらしく やさしいことを云うと思ったら、大病でもされて自分のお金(預貯金)が、出て行く心配をしていたとか、とにかくこの二人の間合いは(奥方が、クール)、抜群で面
白い夫婦です。
「陶芸家 Hのできるまで」は、いわゆる陶芸家になるためのマニュアル本ではなく、また自伝のような人生訓の本でもありません。
自分の艱難辛苦を笑い飛ばしながら 正しく「今は夢、明日は過去」を分かりやすく表現した面白い本でした。
「何かしよう」と漠然とした気持ちのある方、「したいこと」が、あるのにまだ始めていない方の 背中を軽く押してくれる本なので興味が、ある方は、きっと近く図書館にあろうかと推察しますので(陶芸に関心なくとも面白く読めます)お時間ある時にでも読んでみてください。