ブログトップ | ログイン

心の時空

yansue.exblog.jp

a day in my life

天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05384640.jpg
フランス映画「天国でまた会おう」は、セザール賞(フランス版アカデミー賞)で、監督賞(アルベール・デュポンテル監督 1964~、主演)・脚色(=脚本アルベール・デュポンテル監督)、撮影(ヴィンセント・マタイアス 1967~)、天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05403162.jpg美術(ピエール・クフェレアン)・衣装(ミミ・レンピツカ)の 5部門を受賞、それが、うなずける秀作映画でした。
受賞には、至りませんでしたが、音楽監督 クリストフ・ジュリアン(1972~)の哀感溢れるマヌーシュ・スウィング(ジプシー・ジャズ)のメロディと女性アカペラ・コーラスのサウンド・トラックが、秀逸です。
天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05403577.jpg映画のプロットは、戦争(人類は、1914年から1945年のわずか 31年の間に地獄の世界戦争2件を実体験)の不条理と軍の理不尽さ(必要悪の軍は、あっても正義の軍など絶対存在しない)、その犠牲者が、常に愛国心の強要という 欺瞞の国是で徴兵され地獄の前線で殺し合いさせられ、虫けらのように死んでいく善良な国民で、また会えるのは、天国だけというアイロニーを描い天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05404127.jpgています。
第 1次世界大戦(1914~1918)終戦目前の前線では、フランス軍もドイツ軍も兵士の間に厭戦気分が、漂い(酷い環境の塹壕の中で戦う意欲が、なく)停戦命令を待つ日々でした。
念願の停戦命令が、フランス軍の戦線に届いたのに 戦争好きの上官は、軍の命令書を破り捨て、真っ昼間に偵察命令(偵察作戦は、闇夜に隠れて実施するものなが天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05404400.jpgら)を二人の兵士に出しました。
突然の銃声に兵士たちは、色めき立ち 塹壕から顔を出すと二人の兵士が、倒れていました。
銃声に驚いたのは、ドイツ軍も同じで 再び激しい戦闘が、始まりました。
若い兵士のエドワール(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート 1986~)は、突然の突撃命令で生き埋めになった老兵アルベール(アルベール・デュポンテル監督が、演じてい天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05405853.jpgます)を見つけると 我が身の危険を顧みず必死で救出しますが、砲撃を受け自分の顔の下半分を失いました。
このシークエンスでの地獄のような凄まじい戦場と、そこでの激しい戦闘の光景をリアリティのある映像で撮ったマタイアス撮影監督以下、この映画のカメラ・クルーに脱帽します。
天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05410150.jpg停戦の軍令を無視し、部下の兵士二人に無謀な偵察命令を出し、ドイツ軍を挑発し、再び戦闘開始するために 自軍の兵士二人を後ろから撃ったのが、フランス軍の前線指揮官プラデル中尉(ロラン・ラフィット 1973~、2015年「ミモザの島に消えた母」、2016年「エル ELLE」で主演、「天国でまた会おう」では、卑劣極まりない悪人を怪演しています)で アルベールは、このことを天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05411799.jpg知っていました。
戦争が、終わるもアルベールは、パリに帰りたくないという 命の恩人で顔下半分のない若い負傷兵エドワール(戦死したと報告されている)を懸命に看護、彼のために 国から配給されているモルヒネの横流しをしている傷痍軍人からモルヒネを盗み 傷の痛みで苦しむ戦死者のエドワールに使いました。
天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05412127.jpg少しずつ回復したエドワールは、天性の美術才能を発揮、戦争で国のために命を懸けて戦った兵士たちに冷淡な社会に復讐するため、前代未聞の詐欺を計画しました。
エドワールの父親で子供のころから絵ばかり描いていた繊細な息子エドワールを嫌い 犬猿の仲であるフランス政界の大物マルセル(ニエル・アレストリュプ 1949~)や 声帯を損傷しているため、声にならないエド天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05412992.jpgワールの ‘心の声’ を通訳する少女ルイーズ(エロイーズ・バルステール)などを 二人に絡め、デュポンテル監督は、ギミックな演出の技で 映画に戯画性をもたせ、序盤の地獄絵図から次第に寓話性をおびた物語となり エドワールとアルベール二人の ‘天国’が、描かれていきます。
天国でまた会おう   シネマの世界<第971話>_a0212807_05413250.jpgエドワールとアルベール二人それぞれの「天国でまた会おう」という旅立ちのエンテセィングが、印象に残る映画でした。
(備考)青字部分をクリックすると記事に飛びますので参考にしてください。

# by blues_rock | 2019-09-09 00:09 | 映画(シネマの世界) | Comments(2)
火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03362022.jpg
焼け木杭に火の点いた賢治は、亡き母が、直子との結婚を願っていたことを直子から聞き、「知らなかった」とつぶやき悔やむ賢治に、直子が、「近親相姦が、どうした。 やっている兄妹(または姉弟 きょうだい)や父娘(また火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03355095.jpgは母子 おやこ)は、世の中にたくさんいる。 それが、どうしたと云うのだ。」と、性行為を挑発するシーンは、インパクトが、ありました。
直子は、結婚する自分に 極秘任務が、何なのか、自分の行く先も云わず、現地に何日滞在するかさえも教えない結婚相手のパソコンをこっそり見て、日本政府は、逃げ場のない国民が、パニックになることを恐れ ‘富士山爆発の確実な証拠’ 火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03363076.jpgを隠蔽していると知り、その日は、早ければ、三日後であると知りました。
「火口のふたり」は、突然発生する大震災とか、予測不能の人災(原発事故)、突発的に局地に烈しく降る集中豪雨など不確実な大災害が、いまや常時私たちの目の前にあり、突然いつ起きても不思議のないデストピアに向かう私たちに「突然富士山が、爆発したら?」の ‘もし’ を想定していない私たちに問火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03364294.jpgいかけた寓話(でもあり得るよ、とシニカルに問いかけた寓話)でもあります。
昨今の性愛(R18+、成人)映画は、あまりに普通過ぎて 陳腐極まりなく、それゆえ優れたプロット(良い脚本)と秀でた監督(演出)、さらに、主演女優に グッと来るフェロモンを感じなければ、もうまったく見る気になりません。
火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03364608.jpgその程度の性愛(R18+、成人)映画なら TSUTAYAに数多あるAV (R18+=ボカシポルノ)の中からフェロモンのある女性(卑猥な容姿の女性は避け、清潔そうな素人らしき女性、AVに出演する素人女性に清潔を求めるなんてナンセンスなのも承知ながら)が、出演するAVを選んでみたほうが、時間を無駄にしなくて済むでしょう。
火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03365089.jpg
いま日本の性愛(R18+、成人)映画のレベル低く、日本性愛映画の名作「愛のコリーダ」やデンマーク映画「ニンフォマニヤック Ⅰ・Ⅱ」のようなハイレベルの映画までは、期待しないものの私が、期待するのは、映倫を大慌火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03365352.jpgてさせるようなインパクトのある性愛(R18+、ロマンポルノ)映画を 才気ある監督にぜひ撮って欲しいと思います。
直子が、富士山爆発の不穏な日(最後の夜)に「他の男とのセックスで、恥ずかしくてできないこと、したくないことは、いくつもあるが、あなたとなら恥ずかしいことは、何もない、何でもできる。」と賢治に語るシーンは、愛の本質を突いている名台詞です。
火口のふたり(後編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03365646.jpg「火口のふたり」のエンディングで、柄本佑をセックスに誘う瀧内公美の台詞は、「アイズ・ワイド・シャット」のエンディングで ニコール・キッドマンが、元夫のトム・クルーズを誘う台詞と同音異句(良い意味で普遍ということ)でした。
性愛に救いを求めていく二人に寄り添い流れるサウンド・トラックのバイオリンが、すばらしく、冒頭、劇中、エンディング・クレシットで歌うミーシャ(1978~、長崎県対馬、西南学院大学出身)の心に沁みるバラードの3曲と相俟って音楽監督 下田逸郎(1948~)の音楽センスもさすがでした。

# by blues_rock | 2019-09-08 00:08 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03343867.jpg
夏も終わり、秋から年末までの映画シーズン(来週から福岡は、アジア映画祭さらに東京映画祭など各地で有名無名の映画祭が、開催され併せて各映画賞の発表)が、佳境を迎えます。
火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03345630.jpg今夜紹介するのは、荒井晴彦監督(1947~、日活ロマンポルノ出身の名脚本家として有名)長編3作目の新作「火口のふたり」です。
主人公の賢治を演じる柄本佑(1986~)と直子を演じる瀧内公美(1989~)は、映画導入のモノクロ写真(写真家野村佐紀子撮影による二人の過去の関係を示唆する写真)から最後スクリーンに映る富士山大爆発の絵(二人が、セックスしている声だけ聞こえるシーン)まで、激しい性愛(性行為)シーンの連続で、二人は、お互い身体をぶつけ合うような絡み合いでそれこそ ‘体当たり’ の名演技を見せてくれました。
「火口のふたり」は、R18+(成人映画)指定で出演者は、この二人だけ、柄本佑と瀧内公美が、ずっと出ずっぱりで お互いに相手への性衝動(性欲)を抑えられない、本能のままに生きる若い男女(二人は、従兄妹で成人して恋人となり同棲していた過去をもつ、この脚色が、この映画火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03350035.jpgの重要なキーでもある)のエロティシズム溢れる性愛(リアルな性行為)は、この映画の見どころで刹那の愛が、タナトス(死)の匂い漂わせる傑作映画です。
脚本も当然荒井監督で映画のストーリーは、「二人の会話」で成り立ち、脚本を書いた荒井監督の演出の意を汲んだ賢治の柄本佑と直子の瀧内公美は、お互い衝動的に抱き合うも、一緒にいたいのに一緒におれない切なさや、そんなやり切れなさを抱えたまま、そんなすき間を埋めるかのようにお互い身体を求め合う二人の本能(これを荒井監督は、自己を投影させた柄本佑の演じる賢治に「身体の言い分」と云わせています)が、醸し出すデリケートなその刹那の表情が、二人とも実に秀逸で必見です。
荒井監督の盟友カメラマンで名撮影監督 川上皓市(1946~)は、セックスシーン本番を前に緊張している瀧内公美に「美しく撮るから大丈夫」と声をかけ、文句付けようのない爽やかな映像で、若い男火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03352872.png女の激しくも切ない性愛を美しく撮っています。
原作は、福岡が、舞台のようながら荒井監督は、タナトス(死)の匂いを漂わす西馬音(にしもない)の盆踊りを劇に入れ結婚を10日後に控えた直子は、「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」と昔の旧いアルバムを賢治に見せながら誘惑、やがて焼け木杭に火が、点くと二人は、身体が、憶えている性愛の快楽に溺れていきました。
火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03353164.jpg
映画には、登場しないものの妻となる直子にも言えない極秘任務に就いているエリート陸上自衛隊員の婚約者の極秘任務が、映画後半の重要なキーになります。
火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03354383.jpg子供を産むために結婚するという直子を賢治は、おかしいと責め、過って従妹の直子(直子は、賢治の亡き母を慕い、彼女も姪の直子を溺愛していた)と同棲していたことへの後ろめたさもあり(従妹の直子が、賢治を好きなことに託つけ性的関係をもつも近親相姦のような後ろめたさをどこかで感じていたこともあり)、他に女を作って結婚するも直子との関係は、続けていました。
火口のふたり(前編)   シネマの世界<第970話>_a0212807_03354615.jpg
そんな関係を続ける暮らしが、嫌になった直子は、西馬音(にしもない)の故郷に帰りました。(後編に続く)

# by blues_rock | 2019-09-07 00:07 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
私を撮って  シネマの世界<第969話>_a0212807_19343013.jpgイタリア映画「私を撮って」は、イタリアの女性監督 アンナ・ネグリ(1964~) が、2008年に原案・脚本・監督を一人で担って撮った ‘非正規労働者’ をテーマに、この映画の主人公である ドキュメンタリー作家の青年エロス(マルコ・フォスキ 1977~)が、ハンディカメラを握り締め 友人の売れない俳優と彼の妻で幼い幼児を抱えた映画編集助手ルチア(アルバ・ロルヴァケル 1979~、2008年「ボローニャの夕暮れ」、2010年「やがて来たる者へ」)夫婦に密着(=もちろん夫婦の寝室にもカメラは、入り)、ローマで暮らす一組の ‘非正規労働者’を 疑似ドキュメンタリーの映画にするという 劇中劇のような映画です。
「ん!? 終始カメラを回した劇中劇のような映画?」、それなら2018年の日本映画「カメラを止めるな」と同じだと、憶い出した方もおられるでしょう。
‘ノーカット・低予算・無名’ ‥ 「カメラを止めるな」は、上田監督のインタビューにも、無名俳優の中でも敢えて大根にしたとの後日談が、あるように、監督本人・出演者たち・製作スタッフと 私を撮って  シネマの世界<第969話>_a0212807_19345302.png本当に全員無名、これが、この作品に ビギナーズ・ラック(映画ファンの驚き)をもたらしました。
10年前の2008年に製作されイタリア映画の「私を撮って」のほうも ‘ノーカット・低予算・無名’だったろうと推察するも、こちらに ‘どんでん返し’は、なく、出演者の顔ぶれも見ても いまや、イタリアの名女優となった アルバ・ロ
私を撮って  シネマの世界<第969話>_a0212807_19351781.jpg
ルヴァケルが、新人同然で出演(主人公のルチア役)していますし、被写体ルチアの喜怒哀楽をカメラのファィダー越しに見ているうち、いつしかルチアに恋をする主人公の監督でカメラマンの青年エロスを描いていくネグリ私を撮って  シネマの世界<第969話>_a0212807_19354491.jpg監督の「私を撮って」のほうが、私は、映画の質が、ずっといいと思います。
イタリア映画界ホープの女性監督 アリーチェ・ロルヴァケル(1982~、2018年イタリア映画の傑作「幸福なラザロ」の監督)は、当時まだ26歳、3歳年長で 29歳の無名女優であった姉アルバが、主演した「私を撮って」の監督(当時45歳の女性監督)アンナ・ネグリの演出をどう見ていたのか尋ねたいと思うくらい 自然体の(リアリティのある)アルバ・ロルヴァケルの演技で、同2008年の準主演作品「ボローニャの夕暮れ」、翌2009年の主演作品「やがて来たる者へ」で、精神性を強く要求する演技を見事にやってのけたのもよく分かります。
アルバ(俳優)&アリーチェ(監督)ロルヴァケル姉妹の二人からファンとして私は、目を離すまいと思っています。
(備 考) 青文字をクリックすると記事へ入りますので、参考にしてください。


# by blues_rock | 2019-09-05 00:05 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
陶芸好きの友だちから陶芸の本を数冊もらった中の一冊です。
「陶芸家 Hのできるまで」は、博報堂のCMプランナーにしてコピーライターの林寧彦氏(1953~)が、まさに企業戦士(月 100時間の残業が、普通)で 不惑40歳前の無趣味な自分を顧み、奥方の「陶芸しようかしら」の一言に「オレも始めるかな」と言い出すと奥方から「夫婦で同じ趣味なんてみっともない」からと 身を引かれ林氏一人で近所の陶芸教室に通い始めるところから本は、スタートします。
今は夢、明日は過去(その 2) ~ 陶芸家 Hのできるまで(林寧彦 著)_a0212807_01242549.jpgタイトルにある ‘H’ は、博報堂在職中いつも業界の人たちから ‘Hの林さん’ と呼ばれていたことから ‘林のH’ とダブルミーニングにして 本のタイトルにしたそうな、元コピーライターらしくシャレたタイトルだなと思いました。
林夫人は、TV局のディレクターのようで、本の中で紹介される二人のエピソードが、とても愉快で 奥方は、相当クールでドライな方のよう、その夫婦の間合いが、傍目には、抜群で 陶芸を始めて 4年目の 1995年、42歳の時の福岡への転勤辞令は、ショックだったらしく 収入の充てもないまま陶芸家へ転身が、頭をよぎるも、彼の「会社を辞めたいと思う」の言葉に 奥方は、一人娘が、まだ小学 5年生で家のローンもあるのに、あっさり「あっそう、辞めれば」と返事、仕事に未練のあった彼は、あまりあっさりした返事に 肩透かしを食い、単身赴任を決意しました。
陶芸の都(くに)九州、その中心都市 福岡での 5年の ‘単身赴任’ 生活 は、彼の人生を大きく変え、陶芸家への道を本格的に向かわせることになりますから「人間万事塞翁が馬」で、人生何があるか、分かりません。
今は夢、明日は過去(その 2) ~ 陶芸家 Hのできるまで(林寧彦 著)_a0212807_01243400.jpg彼の福岡への単身赴任を巡る娘のエピソードも面白く、小学5年生の娘の勘違いから 泣かれるところが、可笑しくて思わず、笑ってしまいました。
娘の友だちの母親が、「お父さん、左遷(させん)させられたのね」と 自分の娘に言っらそのことを そのまま仲良しの彼の娘に伝え、1995年当時は(阪神淡路大震災発生の年、このことも林氏の人生観を変えている)、どの企業も 単身赴任制度を導入し始めたばかりの頃で、まだ ‘させん’ の意味さえ知らない彼の娘が、「もうお父さんと会えなくなる」と思いこみ、いつも父親のハグを避けるクセにその時は、涙を流しながら強く抱きつき離れなかった(左遷とは、遠くの刑務所か施設みたいな何かに入ることで、もう会えないと勘違今は夢、明日は過去(その 2) ~ 陶芸家 Hのできるまで(林寧彦 著)_a0212807_01243835.jpgいしていたらしく)とのエピソードに 私も胸キュンしましたが、単身赴任後、定期的に千葉県の自宅に帰ってくる父親に「なあんだ、出張みたいなものなんだ。」と父親の部屋を狙っていた娘は、大層不満そうであったとか、それが、とても可笑しくて笑ってしまいました。
林氏は、福岡の単身赴任用マンションを陶芸工房に変え、朝出勤前、夕方定時帰宅後、本格的に陶芸に励みました。
職住が、接近したことで 徒歩通勤となった彼は、自然を見る自分の目が、がらりと変わったことに気付きました。
単身赴任から 5年後の 2000年、東京本社へ帰任するも 彼にとって陶芸は、もう自分の人生にとって不離一体のものになっていて 津田沼の自宅近くに工房を持ちました。
そして林氏は、2年後の 2002年、陶芸収入の当てなど まったくないにも関わらず、あっさり博報堂の早期退職優遇制度を利用し退職しました。
今は夢、明日は過去(その 2) ~ 陶芸家 Hのできるまで(林寧彦 著)_a0212807_01244172.jpgこの自宅近くに工房を持つまでと 早期退職までの紆余曲折が、これまた抜群に面白く、奥方の言うこと 為すこと辛辣で 手厳しく彼より一枚上手ながら、こんな女性ならたぶん男性は、離れて行かないだろうなと思いました。
さらに彼女から「優遇退職のお金、いつまでも 後生大事に取っておくんじゃないわよ。 そういう みみっちいの、大嫌い、3、4年で全部使っちゃいなさいよ、自分のために。」と言われたとか、彼が、自分の生命保険を解約するエピソードでも「もうお金、残さなくていいからね。 それより健康に気を付けてよ。」と林氏いわく、奥方が、めずらしく やさしいことを云うと思ったら、大病でもされて自分のお金(預貯金)が、出て行く心配をしていたとか、とにかくこの二人の間合いは(奥方が、クール)、抜群で面今は夢、明日は過去(その 2) ~ 陶芸家 Hのできるまで(林寧彦 著)_a0212807_01324569.jpg白い夫婦です。
「陶芸家 Hのできるまで」は、いわゆる陶芸家になるためのマニュアル本ではなく、また自伝のような人生訓の本でもありません。
自分の艱難辛苦を笑い飛ばしながら 正しく「今は夢、明日は過去」を分かりやすく表現した面白い本でした。
「何かしよう」と漠然とした気持ちのある方、「したいこと」が、あるのにまだ始めていない方の 背中を軽く押してくれる本なので興味が、ある方は、きっと近く図書館にあろうかと推察しますので(陶芸に関心なくとも面白く読めます)お時間ある時にでも読んでみてください。

# by blues_rock | 2019-09-03 00:03 | 画集/本(Book) | Comments(0)

by blues_rock