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心の時空

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a day in my life

<   2012年 03月 ( 31 )   > この月の画像一覧

手元に一冊のノンフィクション文庫本「石の扉」(加治将一著、新潮文庫)があります。
筆者は、プロローグで「本書の記述は、すべて事実に基づくものである」と書いています。
P.132~P.215に書かれた坂本龍馬(1836~1867享年31才)の正体と行動のナゾ‥一介の脱藩浪人である若い龍馬が、軍艦・蒸気船に乗り江戸と長崎、薩摩と長州を自由に行き来しながら、サラサラと「船中八策」を書き、犬猿の仲の「薩長(軍事)同盟」を成し、無血革命の「大政奉還」、「五か条の御誓文」のメモ、買付け資金もないのに禁制品であった武器を大量輸入した「亀山社中」の代表、軍艦・蒸気船を所有し自由航海した「海援隊」の隊長‥とホンマかいな?という東奔西走、八面六臂の活躍は、超人的で驚きます。
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龍馬暗殺を謀(はか)る刺客たちに囲まれた当時の危険な状況の中で、巨額資金を提供するスポンサーと情報ネットワークがなければできないことばかり、極めて不自然な出来事が、多過ぎます。
徳川幕府・倒幕雄藩、両方に大きな影響力をもち、次第に対立する両権力の中にカリスマ性を帯びてきた龍馬の存在が、ジャマで目障りな薩摩藩または長州藩の尊王攘夷原理主義派か、徳川幕府の治安部隊である京都見回り組のいずれかに、京都での秘密アジト近江屋にいるところを急襲され龍馬は、暗殺されました。
生前の龍馬は、幕末から明治維新の中心にいた人たち以外に知られることもなく、庶民にはまったく無名のままスゥーっと流れ星のように歴史の舞台から消えました。
そして、坂本龍馬が暗殺され、その死後1ヶ月も経たないうちに「王政復古」(明治維新)の大号令が勅令され、新しい日本が誕生しました。
                         坂本龍馬(左)と勝海舟(右)
a0212807_17403345.jpga0212807_1144418.jpg「薩長同盟も大政奉還も、全部龍馬一人で考えてやったこと。あの大ボラ吹きは、言葉一つで薩摩という大藩を動かしおった。」と勝海舟は語っていますが、‘本当のこと’を知っているクセによく言うよと私個人は思います。
ともあれ明治維新後の日本国民の間には、徳川幕府300年体制に引導を渡し、明治立憲君主国家を樹立した大政奉還・王政復古のカリスマ(立役者)として有名になり、今では近代日本史最大の人物で、日本の歴史に永遠に名を残すスーパー・ヒーローとなりました。
「石の扉」は、「フリーメイソン」についてのノンフィクションです。
紀元前数千年古代エジプトの巨大石ピラミッド建造にまで遡り、紀元前後の都市国家の城壁・防壁要塞、中世の強固な城塞、荘厳な教会など西洋文明は、巨大な石積構築物・石造建築により発展してきました。
その石組み土木構築・構造建築を担ってきたのが、石工職人集団でした。
今風に呼ぶなら「国境なき石工団」‥国境なき=フリー、石工団=メイソン、「フリー=メイソン」という国家を超えたネットワーク組織がありました。      (下写真:アメリカの1ドル紙幣、表と裏)
a0212807_20194369.jpgフリーメイソンというと秘密結社で、何か陰謀の影にフリーメイソンありきのように、まことしやかに喧伝ウワサされてきましたが、フリーメイソンからの反論は一切なく説明もないので、その謎はさらに深まりました。
古代から一つの巨大プロジェクトである石造構築物を完成させたら、次の一大石造建築プロジェクトが待つ国へ国境なき石工集団(フリー=メイソン)は、「ヒト・モノ・カネ・ネタ」を携えて集団大移動していくので、移動途中の安全確保・到着後の生活基盤の整備と仕事の準備段取りなど、その解決のために信頼できる確かなネットワークが、当時から必要でした。
当然のことながら、巨大石造プロジェクトなので土木石材等構築資材分野への高度の専門的知識、巨大建築技術のノウハウ、大集団移動の安全保障ための情報力など相互に信頼し強い絆で結ばれた組織(ネットワーク)が存在しなければ成り立つはずはありません。
彼らの仕事は、城塞・城壁・教会・住居‥大河に架ける石橋とまさしく古代国家インフラの生命線(ライフライン)ばかりを請け負っていました。(下:1ドル紙幣の裏、左部分とラテン語の意味「神との約束/新しい世界秩序」)
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言うまでもなく、昔も今も国の安全保障や国防は、国家の最高機密で国家インフラも高度秘密情報で守られており、城・要塞・教会の構造や情報をペラペラ他人に話したり、まして外国人・他民族・異教徒に伝えられたりしたら、あっという間に侵略され国(民族)は滅びてしまいます。
時代は流れ、世界に広がり国々の社会の見えないところで、この秘密組織は存在していきました。
見えないから存在しないと考えるも良し、見えない存在を知りたいと思うも良し、人それぞれの価値観であり精神の自由です。
アメリカの1ドル紙幣は、おそらく世界で一番印刷されている紙片です。
その1ドル紙幣の表は、初代大統領ワシントンの肖像が描かれ、裏の左に目のあるピラミッド「プロビデンス(万物を見透す目)」が絵描かれています。 (下写真:フリーメイソンの東京ロッジビル)
a0212807_2091691.jpgピラミッドは、アメリカの象徴ではありません。                    
アメリカにないピラミッドに目を描いて、1ドル紙幣に印刷する理由は、どこにあるのでしょうか?
そして、目のあるピラミッド「プロビデンス(万物を見透す目)」を取り囲むようにラテン語のメッセージがあります。
さて、冒頭でも書きましたが、「石の扉」のP.132~P.215に、江戸末期から明治維新初頭の時代背景が、歴史の舞台裏に残された歴史の破片・断片を繋ぎ合わせて、読み解かれています。
その激動の日本史の舞台を後ろから俯瞰(ふかん)し、明治維新のシナリオを書き、舞台の裏でプロデュースしながら、当時まだ若者であった明治時代の英傑・元勲たちに来るべき新時代への道しるべとそれぞれの役回りを指導演出していた人物がいました。
当時20代前半、スコットランド出身の若者トーマス・グラバー(1838~1911)、彼はフリーメイソンでした。
坂本龍馬は、勝海舟に紹介され長崎でトーマス・グラバーと出会い意気投合‥国際貿易のノウハウを学び日本最初の商社亀山社中(海援隊)を創設しました。(下写真:長崎グラバー邸近くリンガー邸の石標)
a0212807_18181768.jpgそして、グラバー商会(=ジャーディン・マセソン商会)の代理人として幕府・薩摩・長州を相手に武器・軍艦の斡旋・薩長軍事同盟の交渉など東奔西走・八面六臂の大活躍をしました。
また、グラバーは、1868年明治維新前の1863年に長州藩士5人、1865年に薩摩藩士17人を密出国させ、ジャーディン・マセソン商会の密航ルートでイギリスでは“政治・経済の統治システム”、上海では中国清朝末期の“世界の情勢”を見聞させ、倒幕後の新しい国家経営を学ばせました。
トーマス・グラバーの日本での滞在記録・活動や書簡資料類のほとんどが、残されていません。
明治維新後も長く日本に滞在し、新興三菱財閥の相談役(岩崎弥太郎のブレーン)として東京で暮らしていたようですが、記録は遺されていません。(わずかにあった遺品類は、三菱財閥が収集し封印してしまいました。)
ちなみに、三菱は土佐藩出身岩崎弥太郎が創業者で、坂本龍馬亡き後の海援隊(亀山社中)を引き継ぎ、グラバー商会の日本の権益を全部譲り受けて明治時代以降急成長し大資本家になった財閥です。
なぜか?‥彼自身が自分の記録や資料類を残さないようにしていたか、残してはならない理由があったのか、秘密のベールにスッポリ包まれているので定かではありませんが、秘密の儀式を経たルール(掟)があったのではないかと思います。
           岩崎弥太郎(左)とトーマス・グラバー(右)
a0212807_20211172.jpg現在、トーマス・グラバーの名前は、長崎南山手の観光名所グラバー邸で知られていますが、この観光名所の名称も‥「それも困る、私の名前を消してくれ」とトーマス・グラバーは、長崎のお墓の下で願っているかもしれません。
歴史の中にあるナゾを見る角度を変えて検証してみるのも楽しいと思います。
(参 考)
昨年9月10日「友愛‥秘密結社フリーメイソンの理念」と併せ読んでいただくと幸いです。
by blues_rock | 2012-03-31 00:27 | 社会/歴史/思想 | Comments(0)
山手線上野駅の公園口を出て、上野公園に入るとすぐ右手に国立西洋美術館はあります。
1959年(昭和34年)に設立され、美術館の建物は、画家であり有名な建築家でもあるル・コルビュジエ(1887~1965)の設計建築によるものです。
a0212807_23241379.jpgいま世界に現存するル・コルビュジエの代表的な建築作品をまとめて、ユネスコの世界遺産とするプランがあり、暫定リスト登録の中に国立西洋美術館も含まれることが、決定しました。
また国立西洋美術館は、国の重要文化財(建造物)に指定されています。
美術館の中心は、実業家松方幸次郎が1916年から1923年にかけてヨーロッパで収集した通称「松方コレクション」で、印象派絵画・ロダンの彫刻などフランス美術のコレクション(370点)です。
美術館の庭に入るとまずロダンの「カレーの市民」・「考える人」が見え、右手に大作「ロダンの地獄門」が、目に入ります。
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松方幸次郎は、ロダン彫刻が好きだったようで作品購入も多く、当時貴重品であったブロンズの材料まで提供して彫刻制作を支援していました。
松方コレクションは、フランス政府が、第二次世界大戦で敵国資産として没収し国家財産としたものをサンフランシスコ講和条約締結後の1959年日本国への寄贈というカタチで返還されました。
a0212807_232708.jpg戦前、松方幸次郎は、自分のコレクション2,000点(保管していたロンドンの倉庫の火災で300点を焼失)を日本に持ち帰ろうとしました。
しかし、日本の軍事政府は、持ち込みを禁止、ヨーロッパに残したことが、徒(あだ)になりました。
フランス政府が、返還しなかった20作品は、現在もオルセー美術館・ルーブル美術館にあります。
ゴーギャン4点・セザンヌ3点・スーティン2点・クールベ・マネ・ロートレック・モロー・マルケ・ゴッホ・ルノアール・ピカソなどです。
本来なら今ごろ日本の美術館にあったものを‥当時から政府間の外交ルートで堂々とフランス政府に所有権を主張すべきでした。
国際政治の外交では、老練なフランスなので、外交オンチの日本相手など赤子の手を捻(ひね)るようなもので日本に勝ち目はないものの、それでも国際舞台で正々堂々と主張すべきでした。
実に情けなく、傑作20点の所有権を放棄する(主張していないので放棄したも同じ)などモッタイナイ話です。
a0212807_0303362.jpg国立西洋美術館のもう一つの特徴は、ヨーロッパ中世(14世紀以降の)絵画の常設展示です。
東京で生活しているころ時々出かけ、広い美術館で自分の好きな絵だけをゆっくり時間をかけて見ていました。
今でも、画集や美術誌で国立西洋美術館が所蔵している絵を見ると、その絵が展示されていた室内の雰囲気や壁の様子まで思い出され、懐かしくなります。
by blues_rock | 2012-03-30 00:36 | 美術/絵画/彫刻 | Comments(0)
古賀春江(1895~1933、享年38才)の絵を初めてみたのは、小学生の時でした。
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福岡県久留米市の石橋美術館は、田舎の子供にとって本物の絵画、とくに油絵を見ることのできるただ一つの場所でもありました。(上写真:川端康成が所有していた絵「煙火」1927年)
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古賀春江は、日本洋画壇にあって非常に個性的で、子供心に「素朴な月夜」・「海」・「鳥籠」・「単純な哀話」・「現実線を切る主知的表情」などの彼の絵は、美術館にある他の写実的な絵や浪漫派絵画とは、明らかに異なってa0212807_22161536.jpgいました。
そして、自分で絵を描くようになり、美術誌や画集を見て、古賀春江が、生きた大正と言う短い時代の歴史的背景も分かってきました。
その時代に日本にも自由な表現のできる近代モダニズムの感受性をもった前衛画家がいたことに驚きました。
久留米市の浄土宗善福寺に生まれた古賀春江は、自分の絵画に仏教的精神性を強く求め、表現方法もキュビズムからシュールレアリスムへと変化していきました。
古賀春江が、最も強い影響を受けたのが、パウル・クレーで、水彩画・油絵ともに詩的で寓意的なすばらしい絵を数多く残しています。
a0212807_1203478.jpgその後、彼は商業美術(グラフィック・デザイン)に興味を持ち、仕事として関わることでマグリッドを思わせるような作品を残しました。
若いころ、同居していた友だちの自殺による精神的なショックや自分の神経症の悪化もあり衰弱し病に倒れ38才の生涯を閉じました。
当時すでに石井柏亭(画家・美術評論家)・古賀政夫(作曲家)・川端康成(作家)などは、古賀春江の才能を認め支援していました。
1931年に川端康成は、古賀春江と出会い、彼の才能を高く評価していました。
二人の交友は、古賀春江が、亡くなるまでのわずか2年という短い期間ながら川端康成は、古賀春江の才能を高く評価し、古賀春江の絵画をとても愛していました。
by blues_rock | 2012-03-29 02:08 | 美術/絵画/彫刻 | Comments(0)
「ワールド・オブ・ライズ(原題 Body of Lies)」は、リドリー・スコット監督(1937~)の2008年作品、彼が監督した「エイリアン」・「テルマ&ルイーズ」・「グラディエーター」・「ロビンフッド」などどれも大ヒット‥面白い娯楽映画を撮るベテラン監督です。
映画「ワールド・オブ・ライズ」も期待を裏切らない面白い映画でした。
a0212807_23511147.jpg原題「 Body of Lies」の意味するとおり、嘘だけで出来上がっている国家秘密組織のスパイたちの陰謀と諜報活動による虚々実々・丁々発止の駆け引き場面が、映画に最後まで緊張感を与えてくれます。
中東のヨルダンを舞台に、イラク・イラン・シリア・ドバイに暗躍するイスラム原理主義組織のテロ活動とアメリカCIA諜報部員らが、敵味方入り乱れ、血で血を洗うスパイ活動(陰謀・諜報)によって民衆の中に隠れ姿を見せないテロ首謀者を誘(おびき)き出し逮捕するまでが、映画のストーリーです。
無人偵察機が、上空1万数千メートルから群集に紛(まぎ)れ込んだ敵の1人を探し出し、特定する米軍最新の監視テクノロジーもリアルで驚異的です。
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その探査映像を再現するリドリー・スコット監督の映像技術が、映画の展開にスリルと緊張感を出しています。
とくに映画の中で面白いのは、盗聴傍受を避けるためデジタル機器を使わないテロ組織が、CIAの最新技術をアラビアの広大な砂漠で逆手に取るシーンでした。
a0212807_0371040.jpg一方、テロ組織の機密情報は、人から人へ直接伝えるという昔ながらの原始的なネットワークに、米軍自慢の最新監視テクノロジーが、手におえないシーンも皮肉に見え面白いものでした。
諜報活動では、協力し合おうと言いながら、お互い疑心暗鬼なCIAとヨルダン情報局は、相手に自分たちの情報を与えませんでした。
最新テクノロジーに依存し強引なCIAと人間の情を利用したスパイ活動をするヨルダン情報局とは、次第に対立していきました。
中東の街中で、民衆に紛(まぎ)れた敵に囲まれ、血だらけ傷だらけになりながら、CIAとヨルダン情報局との間で孤a0212807_038422.jpg軍奮闘するCIA諜報部員役をレオナルド・デカップリオが、熱演していました。
彼は誘拐され、テロ組織指導者の拷問を受けますが、瀕死の彼を間一髪で救ったのは、ヨルダン情報局が、テロ組織の中枢に苦労して潜入させた若いアラブ人スパイの情報によるものでした。
中東を舞台にしたスパイやテロという映画は、今では新しいテーマではありませんが、リドリー・スコット監督のリアルな演出はすばらしく、この映画をたいへん面白くしていました。 
ワシントン郊外で子供二人の世話に手を焼きながら、携帯電話でテロの頻発する前線へ冷酷非道な指令を出し、自分の手柄と出世しか頭にないCIA諜報部主任役をラッセル・クロウが好演‥アメリカの傲慢さを象徴したようなイヤミな役柄を軽妙に演じていました。
a0212807_0412034.jpgヨルダン情報局長は、「嘘は嫌いだ」とCIAに抵抗しながら、テロ組織とCIAに対し一番大きな嘘(Lie)を仕掛けます。
そのクールな役どころをマーク・ストロングが、見事に演じていました。
この映画は、中東アラビア半島を舞台に原油利権と国家間争奪をテーマにした2005年の映画「シリアナ」(ジョージ・クルーニー制作・主演)と併せて見ると楽しめると思います。(写真上・下:「シリアナ」のシーン)
中東アラブ史においてそれぞれの民族・イスラム教宗派・国家利権などが、複雑に折り重なった現代の中東で、いま起きている戦争・紛争・テロの現実が、少し理解できるかもしれません。
a0212807_0451085.jpgちなみに「SYRIANA」という単語は、辞書を引いても出てきません。
アメリカの国家戦略研究所が、イラン+イラク+シリア=新国家「シリアナ(SYRIANA)」建国を画策し、その目的を果たすために名付けた作戦の暗号(陰謀と謀略のコード)名とか‥そんな大それたことを映画のテーマにして、映画を制作するアメリカという国のフトコロの深さに驚きました。
表現と言論の自由は、確かに社会規範として存在し、それを法律で保障しているアメリカは、時として善と悪、清と濁を同時に併せ呑むダイナミックな国だと感心します。
by blues_rock | 2012-03-28 00:48 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
博多は、いま春爛漫です。
今年の冬は、寒い日が続き、私の住まう地域の梅林の開花も、例年になく遅れ、桃も桜も季節(とき)を待ちかねたのように、一斉に咲き始めました。
さまざまな春野菜・山菜類も旬を迎え、今まさに博多の食卓もまた春爛漫を満喫しています。
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「土筆(つくし)の卵とじ」は、ほんのり苦い土筆(つくし)独特の風味が美味しく、また昔懐かしく、ご馳走(食)の感覚は、人それぞれ千差万別で、その人の暮らしてきた家庭の食卓にあるということを改めて痛感しました。
私の大好物、筍(タケノコ)も出回り始めました。
掘り立ての筍の土を払い落し、そのまま焼いて外皮を剥き、焼きたての香ばしい熱々をふうふう吹きながらかじる焼き筍や山椒の新芽をふんだんにトッピングして食べる筍とワカメの合せ煮、筍の穂先のてんぷら、筍の炊き込みご飯など‥毎日筍を食べてもイヤになることはありません。
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原木椎茸(春子)も今が採取のピーク、大きめのドンコ(厚肉椎茸)だけを選び、金網の上で焼いて熱々の焼き椎茸にレモン汁をギュっと搾って食べるとほくほくとして、まるで山アワビのような味わい(食感)です。
博多には、近郊のバラエティに富んだ農産物・山菜類があり、これに玄界灘で獲れた魚の刺身と併せ、春のご馳走に舌鼓を打ちながら、焼酎(芋・蕎麦・米・麦・胡麻)のお湯割りで、友人や親しい人たちと一杯やるのも、人生のもうひとつのご馳走です。   (下写真:施設の窓から見える竹林‥ウグイスが盛んに鳴いています。)
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    春風の  花を散らすと  見る夢は

    さめても胸の  さわぐなりけり   (西行)
by blues_rock | 2012-03-27 04:55 | 柏原生活/博多叙景 | Comments(0)
2000年公開の映画で主演のデンゼル・ワシントン(1954~)の好演が光ります。
a0212807_17245392.jpgこの映画は、リング・ネームを「ハリケーン」と呼ばれたプロボクシング・ミドル級第一位の黒人ボクサー、ルービン・カーターが、1966年にニュージャージー州で発生した殺人事件の犯人として警察からデッチ上げられ、逮捕・投獄された実話を基にしています。
ルービン・カーター無罪の証拠は、黒人嫌い(人種差別主義者)の警官たちにより完全に無視(隠ぺい)され、彼を殺人犯にするために証拠・証人をデッチ上げ(偽装・ねつ造)、州最高裁判所は、彼を第一級殺人罪で刑務所に投獄しました。
刑務所では、囚人服を拒否し22年、無罪(冤罪)を主張し再審請求を続けますが、その度に却下されながらも友人たちに支えられ不屈の精神力で、ついに連邦裁判所で“無罪”の判決を勝ち取りました。
ノーマン・ジュイスン監督は、「ザ・ハリケーン」の挿入歌にボブ・ディランの名曲「Hurricane」(1975年)を使用しています。
a0212807_0584417.jpgこの曲は1976年発表のアルバム「Desire」(詞・曲、ジャック・レヴィと共作)の1曲目に収録されました。
社会的不正を告発する怒りに満ちたディランの激しいヴォーカルに胸を熱くします
アルバム「Desire」には、ケルト音楽家スカーレット・リヴェラの奏でる哀愁ある激しいヴァイオリンの音色が、随所にフューチャーされ‥ジプシー・ヴァイオリンのようでもある音色は、ボブ・ディランの歌声と相性が良く、心に沁みました。
Bob.Dylan : 「Hurricane」 ‥ すばらしい叙事詩です。
a0212807_059401.jpg          「ハリケーン 」(歌詞)
深夜のバーに銃声が響く
パティ・ヴァレンタインが、二階から降りてくると
血の海に倒れているバーテンダーが見えた
「なんてことしたの、みんな死んでいる」と彼女は、叫んだ
ハリケーンの物語は、こうして始まった
身に憶えのない罪を着せられた男
彼は、やっていない殺人の罪を着せられて
刑務所の牢獄に入れられた
彼は、世界チャンピオンになれたのに
パティは、三つの死体が、転がっているのを見た
もう一人ベローという男が、店から逃げようとしていた
「オレは、やってない」と彼は、両手をあげた
「オレは、レジの金を盗もうとしただけだ、分かってくれよ
ヤツらが、立ち去るのを見たぜ」彼は、そう言って立ち止まり
a0212807_114957.jpg「オレたちどちらか、警察を呼んだほうが、いいんじゃないか」
だからパティは、警察を呼んだ
そして赤いランプを光らせて、警官たちが、現場に着いた
ニュージャージーの暑い夜だった
一方、現場から遠く離れた別の場所で
ルービン・カーターは、友だち2人とドライブしていた
カーターは、ミドル級第一位の男だ
パトカーの警官が、彼の車を道路わきに寄せた時には
最悪の事態が、自分の身に降りかかろうとしているのを、まったく知らなかった
前にもそんなことがあった、その前にも、そんなことがあった
パターソンでは、そんなことは、いつものことだ
黒人なら、街に出ないほうがいい
警官に捕まりたくなかったらね
アルフレッド・ベローには、仲間がいて、彼らが警察に証言した
アーサー・デクスター・ブラッドリーと一緒に街をうろついていただけだ
a0212807_1273645.jpg「ミドル級ぐらいの男が二人、逃げるのを見た」と彼らは言った
「二人は、他の州のナンバープレートが付いた白い車に飛び乗った」
ミス・パティ・ヴァレンタインも、うなずいた
「ちょっと待て、こいつは、まだ生きている」と警官が言い、彼を病院に運び込んだ
この男は、ほとんど見えなかったのに
警官は「犯人を見ただろう」と瀕死の彼に質問した
朝の4時、ルービンは逮捕され、病院の二階に連れて行かれた
瀕死の男は、顔を上げられ、片方の目で見た
「なぜこの男を連れて来た? この男ではない」と彼は言った
そう、ハリケーンの物語は、こうして始まった
身に憶えのない罪を着せられた男
彼は、やっていない殺人の罪を着せられて
a0212807_173623.jpg刑務所の牢獄に入れられた
彼は、世界チャンピオンになれたのに
4ヶ月後、スラム街は熱く沸いていた
南アメリカでルービンは、自分の名誉のために戦っていた
その頃アーサー・デクスター・ブラッドリーは、まだ盗みを働いていた
警官たちは、彼に脅しをかけている、罪を着せる男を探して
「バーで起こった殺人事件を覚えているな?」
「犯人を見たと言ったことを憶えているな?」
「よく考えろ、協力したほうが、身のためだ」
「あの夜、お前が見たのは、車で走り去るボクサーではないのか?」
「自分が、白人だということを忘れるな」
「私は、確信が持てません」とアーサー・デクスター・ブラッドリーは言った
警官は言った「お前には、休みが必要だな
a0212807_185168.jpgモーテルの盗みで、お前は挙がってるぞ、友だちのベローとは、話が付いている
刑務所に戻ることもないだろう、いい子になれよ
社会のためにもなるんだぞ
あの黒人野郎は、どんどん調子にのって、ますます強気になりやがる
オレたちは、あいつを刑務所にぶち込みたいんだ
三人を殺した犯人は、あいつにしたいんだ
あいつはジェームス・J・コーベットじゃないんだぞ」
ルービンは、一発のパンチで相手をノックアウトできた
でも、彼はそんな自慢が、好きではなかった
「それがオレの仕事だ」と彼は言った、「生活のためにやるのさ
そして試合が終わったら、さっさとどこかへ行きたいね
パラダイスにでも行きたいよ
川ではマスが泳ぎ、空気がきれいなんだ
a0212807_115148.jpgオレは、馬に乗って小道を走るのさ」
しかし彼らは、ルービンを刑務所の牢獄に送り込んだ
一人の男をネズミにする場所へルービンの持ち札には、すべて事前に印が付けられていた
イカサマ裁判に勝ち目は、なかったんだ
裁判官は、ルービン側の目撃者たちを、スラムから来た酔っ払いと片付けてしまった
陪審員の白人にとって、ルービン側は、過激派だった
黒人にとっても、頭のイカれた黒人たちだった
彼が、引き金を引いたことを、誰も疑わなかった
検事は、証拠の銃を提出することができなかったのに
検事は、ルービンこそ犯人だと言った
陪審員の意見は一致した、全員が白人だった
a0212807_137417.jpgルービン・カーターは、不正な裁判にかけられた
罪状は、第一級殺人罪、検事の証言者は、驚くなかれ、ベローとブラッドリーだった
二人とも嘘をついた、新聞は、それに同調した
無実の男の人生が、なぜ愚か者の手に握られてしまうのか

明らかに無実の男が、はめられたのに
この国に住んでいることを恥ずにはいられない
正義が、おざなりなゲームになった国を
今やスーツを着てネクタイを締めた犯罪者どもが
好きな時にマティーニを飲み、朝日が昇るのを見ているのに
ルービンは、10フィート四方の狭い牢獄で仏のように座っている
a0212807_1424437.jpg無実の男には、生き地獄
それがハリケーンの物語だ
彼の汚名が晴れるまで物語は終わらない
彼に人生の時間を返すまで
彼は、刑務所の牢獄に入れられた
彼は、世界チャンピオンになれたのに
by blues_rock | 2012-03-26 01:55 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
ボブ・ディランが、1965年に発表した6枚目のアルバム「追憶のハイウェイ61」のA面1曲目に、ロックの名曲「Like A Rolling Stone」は、収録されています。
このアルバムは、ロック音楽史の中で、特に革新的な意味をもっています。
a0212807_1152451.jpgボブ・ディラン(1941~)は、フォーク、ブルース、ロック、どれも最高のミュージシャンで、詩人としても秀でており、彼の歌詞(詩)は、近年ノーベル文学賞の候補にノミネートされたそうです。
彼は、6枚目のアルバム「追憶のハイウェイ61」から明確に自らの音楽表現をロックに変化させていきました。
自分の作詞・作曲した楽曲が、音楽の独創性と質で大衆的人気を獲得した最初のロック・ミュージシャンとしてホブ・ディランは、ビートルズと同じ役割を果たしました。
その記念碑ともいうべき名曲「Like A Rolling Stone」は、録音スタジオにいたアル・クーパーが、即興で弾いたとされるオルガンも印象的で、世界中で大ヒットしました。
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演奏時間も6分と当時としては長く、ヒット曲3分間の壁を壊した最初の曲でもありました。
ロック音楽誌「ローリング・ストーン」が選んだ歴代ロック名曲500選で第1位に選ばれました。
「Like A Rolling Stone」では、ギターの名手マイク・ブルームフィールドの存在も忘れてはなりません。
a0212807_12151844.jpg彼は、ボブ・ディランからスタジオに呼ばれ、この曲のギター演奏についてアドバイスを依頼されリハーサルしているうちに、彼がリード・ギターを担当することになったのだそうです。
このアルバム制作のセッションからマイク・ブルームフィールドとアル・クーパー二人は意気投合し、1968年9月サンフランシスコのフィルモア・オーディトリウムでブルース・ロックのライブ・セッションを行いました。
このセッションを収録したアルバム「フィルモアの奇蹟」は、ロック史上の名盤として有名なレコードとなりました。
ロック史不朽の名曲「Like A Rolling Stone」は、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、デビット・ボウイ、ほか多くのロックミュージシャン、ブルースシンガーにカバーされました。
ボブ・ディランについては、もっと書きたいことがありますが、これからのブログで少しずつ書いて行きたいと思います。
by blues_rock | 2012-03-25 12:21 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)
先日、モディリアーニを書いていたら、福岡市美術館で開催された「レオナール・フジタ展」を思い出しました。
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レオナール・フジタこと藤田嗣治(1886~1968)は、日本人洋画家として世界で最も有名な人です。
だが、彼が日本人であったのは、日本に別れを告げた1949年まででした。
a0212807_21153158.jpg彼は、若くしてエコール・ド・パリの花形画家となり、乳白色のマチエールに面相筆で描いた裸婦像は、当時のパリで一世を風靡しました。
モンパルナスでは、となりの部屋にモディリアニが住み、同じアパルトマンに住むスーティンともども仲良しでした。
友人は、ピカソ・キスリング・パスキン・ルッソーなど個性的な画家たちばかりでした。
今回の展覧会で見た最初の絵(デッサン)は、モディリアニそっくりで、なるほどなと彼の友人モディリアニへのオマージュを感じました。
藤田嗣治が、戦争中従軍画家として戦争画を描いたことと、すでにヨーロッパを始め世界的に有名な画家となった彼への羨望(やっかみ)や嫉妬(ジェラシー)で戦後の日本画壇は、彼を拒絶しました。(一緒に従軍画家として戦地に赴いた小磯良平は、糾弾されることもなく日本洋画壇の巨匠として大成しました。)
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それならばフランスに戻ろうと、1949年(昭和24年)彼は、祖国の日本に永遠の別れを告げ、1955年フランスの国籍を取得し、1959年にはキリスト教カトリックの洗礼を受けて、1968年スイスで亡くなりました。
a0212807_212054100.jpg今回の展覧会で初めて晩年のレオナール・フジタの作品をまとめて見ることができたのは、ラッキーでした。
私自身は、エコール・ド・パリ時代の作品のほうが、やはり好きでした。
ともあれ70才は、当に過ぎている年齢で、あれほど多数の作品を描き上げた情熱と技術に驚き尊敬しました。
日本人画家藤田嗣治としての偉業は、なんと言っても秋田県立美術館(平野政吉美術館)にある1937年の大作「秋田の行事」と思います。
大展示室にある横20.5メートル、縦3.65メートルという途方もないサイズのキャンバスに、秋田の行事や風物詩を描いた油彩画で見ていて圧倒されました。
まわりに、1930年代の作品「町芸人」・「眠れる女」・「チンドンヤ」・「五人女」・「自画像」・「北京の力士」・「那覇の客人」などが展示され、画家として円熟した藤田嗣治の才能とエネルギーを感じました。
秋田県立美術館(平野政吉美術館)の藤田嗣治コレクション(総数101点)は、有名で充実しています。
藤田嗣治が、日本で制作した作品をまとめて所蔵展示していることから「藤田嗣治美術館」とも言えます。
by blues_rock | 2012-03-24 00:00 | 美術/絵画/彫刻 | Comments(0)
油山の麓(ふもと)にある「花畑園芸公園」は、私の住まいからも近く、四季の気候の良い時、ふらりと散歩に出かけます。
昭和59年、旧福岡県農業試験場の跡地を園芸公園にし、福岡市民に開放されました。
花畑(はなはた)は、この地域にある地名から「花畑園芸公園」とネーミングされました。
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14.7ヘクタールという広大な敷地には、福岡県特産のミカン・カキはもとより、87種類の果樹1,300本が、育てられています。(写真上:梅園の梅「楊貴妃」、写真下:温室に実るバナナの大房)
大きな温室では、バナナの房や南国のめずらしいフルーツ類が、甘い香りを添えて出迎えてくれます。
園内の庭には四季折々の花が、いつも美しく咲いています。
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野菜栽培・庭いじりなど園芸が好きな市民向けに、野菜の栽培指導や園芸相談、農業講習会も開催されていますので、週末ともなると年配夫婦、子供連れの家族で賑わいます。
私は、もっぱら人影の少ない平日の夕方に園内をブラブラ散歩するか、施設直売所で販売されている園内収穫の果物を買いに行くか、で利用しています。
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昨年の秋、園芸公園のミカン収穫イベント(2キロ300円)に初めて応募したら当選しました。
園芸公園の果樹担当者が、一年間手塩にかけ育てたミカンの木に、たわわに実った美味しそうなミカンを選んで、係りの人から渡された園芸バサミでパッチン・パッチンと収穫しました。
さっそく公園のベンチで食べたところ、これが美味しいのなんの‥今年も応募しようと秋を心待ちにしています。
by blues_rock | 2012-03-23 02:31 | 柏原生活/博多叙景 | Comments(0)
a0212807_194183.jpg1960年代初め(昭和30年代半ば)ブラウン管白黒テレビが、日本の家庭に普及し始めたころ、茶の間に人気を博したのが、アメリカのテレビ番組「ローハイド」でした。
その主題歌が「ローハイド」で、アメリカ西部の荒野を移動する牛の群れと馬に乗ったカウボーイたちを背景にして「♪ローレン、♪ローレン、♪ローレン‥、ローハイ」という歌が、流れていました。
テレビ放送は、毎週日曜日夜8時から1時間程度のシリーズで‥物語は、テキサスからミズーリーまで3千頭の牛を追いながら運ぶ長旅の西部劇、フェイバー隊長以下副長のロディ(クリント・イーストウッドのデビュー)、コックのウィシュボーンと助手のマッシー、隊員のピートなど旅の途中に起きる出来事(人間ドラマ)が、「ローハイド」の筋立てでした。
アメリカでは、「ローハイド」の番組が始まった1959年から放送終了の1965年まで6年間で217話が、テレビ放送されたとのこと、アメリカでも相当の人気テレビ番組だったことが分かります。
a0212807_1103596.jpgカントリーの名歌手フランキー・レインが、伸びのある声で、男の哀愁たっぷりに歌っています。
「ローレン、ローレン、ローレン‥ローハイ」と歌うローハイドの歌は、団塊の世代以上の方たちにとって胸キュンな曲ではないでしょうか。
当時毎週日曜日の夜八時に放送が始まると、白黒テレビ画面に「RAWHIDE」とタイトルが表われ、映像と一緒に主題歌の「♪ローレン、♪ローレン、♪ローレン‥、ローハイッ、イェー‥(ヒシッと牛追いムチの音)」が、流れました。
その「ローハイド」の冒頭シーンをYouTube(51秒)で見つけましたので、ご同輩に紹介いたします。
長い間、「RAWHIDE」の意味、歌詞の意味が、辞書で調べても分からないまま聴いていました。
この英語字幕と訳詞付きYouTube映像で歌詞の意味が分かり、長年のモヤモヤが解消しスッキリしました。
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タイトルの「RAWHIDE」とは、RAW(生)HIDE(皮)を編んで長いムチにし、牛追いの道具としてカウボーイたちが、使っていたムチの呼び名のことでした。
by blues_rock | 2012-03-22 01:08 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)