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心の時空

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a day in my life

<   2012年 01月 ( 31 )   > この月の画像一覧

a0212807_019666.jpgあがた森魚(1948~)は、知る人ぞ知る日本ロック(フォークロック)黎明期の異才です。
戦後生まれなのに、大正ロマン溢れる情感を唄った「赤色エレジー」・「乙女の儚夢」などの名曲を収録したLPアルバム「乙女の儚夢」(1972年)は、日本ロック史に残る名盤です。
壱面に 1.乙女の儚夢 2.春の調べ 3.薔薇瑠璃学園 4.雨傘 5.女の友情 6.大道芸人
弐面に 1.曲馬団小屋(挿入曲:美しき天然) 2.電気ブラン 3.秋の調べ 4.赤色エレジー 5.君はハートのクイーンだよ 6.冬のサナトリウム 7.清怨夜曲‥「乙女の儚夢」は、全13曲からなるあがた森魚のコンセプトアルバムとして発表されました。
個人的には「清怨夜曲」がとくに好きで、この曲の刹那(せつな)的な歌詞に、哀愁をおびたメロディとタンゴのリズムが絡み、日本タンゴの名曲だと思います。
a0212807_0222581.jpgジャケット(林静一画)は三つ折りデザインで、折込み冊子を入れたアイデアと併せ凝りに凝っています。
竹久夢二を想わせる林静一のイラストと相俟って「赤色エレジー」は、大ヒットしました。
あがた森魚のもう一つの功績は、当時まだ無名であった「はっぴいえんど(細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂)」や「はちみつぱい」と一緒に活動し、アルバム制作やライブを通してバックバンドであった彼らの音楽的才能を開花させ、バンドが解散した後も、メンバーそれぞれが、ミュージシャンとして活躍のきっかけを作った功績は、大きいと思います。
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アルバム「乙女の儚夢」の収録には、若き日の友部正人・西岡恭蔵・武川雅寛(名曲「神田川」のヴァイオリン演奏)も参加していました
by blues_rock | 2012-01-31 00:24 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)
a0212807_1462262.jpgスザンネ・ビア監督(1960~)の人物像については、昨年2011年8月27日のブログ「シネマの世界‥未来を生きる君たちへ」で紹介しましたので、今夜は作品について書きたいと思います。
スザンネ・ビア監督(右写真)は、デンマーク映画界の俊英で、映画監督のほか脚本家・プロデューサーでもある才媛です。
デンマーク映画を世界的に有名にした鬼才ランス・フォン・トリアー(1956~)監督とは、デンマークの映画運動「ドグマ95」の盟友です。
a0212807_147715.jpg映画監督ランス・フォン・トリアー(1956~)についても、すでに昨年2011年11月5日のブログ「シネマの世界‥ANTICHRIS♀(アンチ・クライスト)」にて紹介しましたので、そちらを参考にしていただければ幸いです。
来月2月、トリアー監督の新作「メランコリア」が封切られますので、改めてトリアー監督のことは、シネマの世界で映画と併せ紹介したいと思います。
日本では、スザンネ・ビア監督の5作品が、上映されました。
2002年「しあわせな孤独」、2004年「ある愛の風景(原題:兄弟)」、2006年「アフター・ウェディング」、2007年「悲しみが乾くまで」、2010年「未来を生きる君たちへ(原題:復讐)」です。
スザンネ・ビア監督の映画は、どれもシリアスな人間の本性をテーマにしてリアルに撮られていますが、たとえ世界は、絶望的な現実の中にあっても、未来への希望だけは失いたくないというビア監督のメッセージが、どの映画にも残されていました。
                (下の映像は、ドグマ95ルールによる映画制作「しあわせな孤独」のワン・シーン)
a0212807_10164550.jpg(参考)
ドグマ95 ‥ 1995年から始まったデンマークの映画運動
1.撮影は、ロケーションとする。スタジオでのセット撮影を禁じる。
2.映像と関係ない効果音を使ってはならない。
3.手持ちカメラで撮影する。
4.映画は、カラー映像とし照明効果を禁止する。
5.光学合成およびフィルターを禁止する。
6.35ミリフィルムを使用する。‥などドグマ95‘純潔の誓い’10項目のルールがありました。
by blues_rock | 2012-01-30 01:45 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
私が、最も贔屓(ひいき)としている男性俳優は、アル・パチーノです。
a0212807_1232121.jpg1972年の映画「ゴッドファーザー」でマフィア・ファミリーのドンを演じるマーロン・ブラント(1924~2004没 享年80才)を相手に父親思う堅気の三男役を“目”の感情表現で見事に演じてみせました。
それからアル・パチーノ(1940~)のファンになり、彼の新作映画が、封切られるたびに見続けました。
日本で封切られたアル・パチーノの映画は、確か37本と思います。
a0212807_1254461.jpgいまアル・パチーノの全映画作品を見直しているところです。
さて、何度も見た1996年の「ヒート」(監督マイケル・マン)は、ロバート・デ・ニーロ(1943~)との共演が話題となり、二人の個性ある演技が、3時間近い映画に緊張感をもたせ、最後の最後、名場面で映画は終わります。
アル・パチーノも今では72才の円熟の名優、2010年彼の最新作「陰謀の代償」では、物語のキーマンとなる老警察署長役を渋く演じていましたが、安心して見ておられました。
2007年「ボーダー」(監督ジョン・アヴネット)で、アル・パチーノ(当時67才)とロバート・デ・ニーロ(当時64才)は、11年ぶりの共演をしました。
同じクライム・アクション(犯罪事件)映画ながら、シナリオが原因か、監督の演出力量の差なのか、「ヒート」のほうがよかったように思いました。
「ボーダー」には、イチャモンを一言、原題の「RIGHTEOUS KILL」を直訳すると「正当な殺し」という意味ですが、なぜタイトルを「ボーダー」に替えたのか、私にはよく分かりませんでした。
a0212807_1273245.jpgたぶん、配給会社のセンスの差でしょう。
映画タイトルを横文字にするのなら、そのまま「ライタス・キル」とすべきでした。
11年前となる二人の共演作品「ヒート」(1996)の大ヒットで「ゴッドファーザーPart 2」(1974)をしのぐ、二つの個性の激突が、映画「ヒート」にインパクトを与えましたので“柳の下のドジョウ”をねらい、意訳して「ボーダー」としたのでしょう。
映画の出来より、ベテランとなったアル・パチーノとロバート・デ・ニーロの変わらない個性ある演技をじっくり楽しむ映画でした。
どんなにすばらしい俳優を起用しても、脇を固める共演者たちのレベルや監督・脚本・撮影に才能を感じないと、作品はつまらないものとなってしまいます。
私が、好きなアル・パチーノ主演この一本は「セント・オブ・ウーマン」(1992)で、ロバート・デ・ニーロ主演は「タクシー・ドライバー」(1976)です。
「セント・オブ・ウーマン」で、盲目の退役軍人役のアル・パチーノが、ホテルのロビーで寂しそうに恋人を待っている若い女性とタンゴを踊るシーンがありましたが、いまでも印象に残る感動的なシーンでした。
by blues_rock | 2012-01-29 01:11 | 映画(シネマの世界) | Comments(0)
二年半前の出来事ながら、突発性腰痛(ぎっくり腰)の激痛に苦しみました。
寝返り、寝起きができず、普段の行動もままならず、日常生活への支障をイヤっというほど思い知りました。
a0212807_2404836.jpgそして、自分が自分の意思どおりに動けないことへの恐怖も感じました。
病気は、自分の意思で罹るわけではありませんが、認知症という病気は、自分の行為や活動への自己認識がありませんので、傍で見ていて辛いものがあります。
ある70才代の女性は、書家として有名な方で、お一人で住まわれ、その暮らしぶりも凛(りん)としておられました。
私が、初めてお会いした時、この方に認知症状を感じませんでした。
ゴッホの大ファンで、ゴッホの画集を一緒に見ながらゴッホについてお話ししたら、目をキラキラさせて楽しそうでした。
他の話題についても、いろいろなことを良くご存知(博識)で、会話が弾み、この方の今に至る人生の片鱗を窺い知ることができました。
ある日、自宅で転倒され床で腰を強打、亀裂骨折により3か月くらいの入院を余儀なくされ、退院後3か月くらいの機能回復リハビリと休養期間を終え半年後に、私たちの介護施設に戻ってみえました。
a0212807_2423646.jpg長い入院による環境変化は、この方のアルツハイマー型認知症を急速に悪化させ、さらに下肢筋力もかなり低下されていました。
半年ぶりの再開で、私が「○○さん、お久しぶりです。お元気そうで安心しました。」とご挨拶すると戸惑いの表情で「‥ごめんね、顔は憶えているのだけれど、お名前が‥ごめんね。」と不安そうに答えられました。
その日、この方の好きなゴッホの画集をご覧いただき、ゴッホについてお話をすると以前のようなキラキラした表情になられました。
旧い知識や記憶の断片は確かで、感受性もすばらしいのに、自分の行為や行動が、認識できず‥この方のケア・マネージャーから、アルツハイマー型認知症疾患が原因の認知不全と推察されること、右・左(みぎ・ひだり)の区別や日々の暮らし(衣食住の生活)に支障があることを伺いました。
調理や入浴などに行為の認識がなく、日常行動も不自由とのことでした。
ある日、隣りの人が、草を料理されているの見て、慌てて認知症による要介護認定の申請をされたそうです。
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私は、この方が、ゴッホの話を憶えておられるかどうかは、さして気にしていませんでした。
私にとって重要だったのは、この方が、絵を見られる時の目の輝きや音楽を聴かれてる時の穏やかな表情を見て、いつもの不安に怯えたような表情が消え、平安な心でおられるのが分かり、私の心が和むからでした。
この方が、亡くなられて一年が、経ちました。
亡くなられる前、入院している病院では、自分の排せつ介助をする方に申しわけないからと、食事も飲み物も拒否されていた(摂取量を自分の意思で減らされていた)と、この方の妹さんから伺いました。
数か月の短い期間でしたが、この方のことを懐い出すと、人としての品性と尊厳について考えます。
by blues_rock | 2012-01-28 02:27 | 高齢者介護(認知症) | Comments(0)
私が、住まう福岡市南区郊外の山裾に、この地域に暮らされる高齢者の皆様方が、最期まで住み慣れた自宅で生活できるよう、在宅介護のお手伝いをする施設(事業所)があります。
週4日、この高齢者介護施設で働くまで、私は福祉や介護に興味も関心もなく、まったく無縁の人間でした。
私の認知症についての知識は、老いによるボケ(か、痴呆症)のこと程度の恥ずかしいものでした。
認知症の高齢者を主人公にした映画制作され、秀作も多いので映画を通して学んだ程度の浅い知識でした。
認知症が、テーマの秀作映画は「君に読む物語」・「アウエイ・フロム・ハー」・「夢のままに」などがあります。
映画では、老夫婦(あるいは壮年夫婦)のどちらかの記憶喪失、伴侶(相手)への認識不全、心の崩壊を通して、人生をともにした夫婦の愛がテーマでした。
a0212807_20302780.jpg高齢化が進む日本では、これから認知症疾患の高齢者が増え‥そして、家族の、夫婦間の介護の多種多様な苦悩と現実の問題が、確実に増えてきます。
愛とは?家族とは?人生の長い時間を共有した相手への思いやりとは?絆(きずな)とは?‥すべての人に最晩年の人生の最終章が、問われます。
最初から高齢者として生まれてくる人は、いません。
人は自ら望んで老いていくわけでもありません。
それは、この世に生まれたすべての人たち皆平等に与えられた不可避の宿命‥いま命ある人すべてが、やがて老い必ず死んでいきます。
いま認知症を患う高齢者の皆様方にも、かって遠い昔、希望あふれる青春の輝きや恋愛して家庭をなし、社会的地位も得て、順風満帆の充実した過去があったろうと推察します。
そして、いつしか年を重ねるうちに、過去という失った欠けがえのない人生時間(記憶や思い出)を喪失していく認知症(脳の病気)を発症していきます。
認知症には、要支援1・2、要介護1~5までの介護度と症状により認定区分さますが、本人とその家族そして担当するケアマネージャーの知見と認定申請で、認知症の度合いと介護のレベルが審査され決定されます。
私たちの介護施設(デイサービス・小規模多機能ホーム)にも、多くの認知症高齢者の方々が見えています。
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昔は、大手地方銀行の支店長であったご老人は、要介護3の認知症‥今でも預貯金の一切を肌身離さず、ともに暮らした家族からも疎まれ、一日中施設の玄関のイスに座り、顔をしかめて「‥帰る‥帰る」と繰り返しつぶやいておられましたが、介護に疲れた家族の拒否に合い希望はか叶いませんでした。
華麗な身なりの裕福な家庭の老婦人も、レベル3の認知症です。
隣りに座る方とのコミュニケーションができず、いつもイヤミを言い、人の物を自分のポケットに入れ(すべてご自分のものとの誤認からきているので盗んでいるわけではない)何か言われると「いくら欲しいの?いくらでも払う。10万円?」と鉛筆一本のことで言われています。
対照的なのが、90歳になられるご老人で、要介護2の男性です。
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いつも穏やかで、回りに気を使われ、居合わせたおばあさんたちとおはじきやトランプに興じられ、いつも‥ワッハッハ‥ワッハッハと笑顔いっぱいです。
この方の人生も戦前・戦中・戦後を生きて艱難辛苦(かんなんしんく)の人生であったろうと推察しますが、微塵にもそんな素振りを見せられません。
この方は、この施設で介護サービスを受ける高齢者の皆様や介護のお世話をするスタッフたちとの日常生活をネタに、ユーモアとウィット溢れるやさしい言葉で替え歌をたくさん作られています。
その替え歌を歌謡曲のメロディに合わせ全員が大声で唄い‥ワッハッハ‥ワッハッハと誰も皆な大笑いです。
この方は、高齢者の皆様方やスタッフたち全員から慕われておられます。
高齢者の最期は、その方が生きた人生の集大成なので、幸不幸のありようには個人差があり千差万別です。
いま、目の前にある現実に「明日は、わが身」の姿を想像しながら、高齢者の皆様方のお相手をしています。
by blues_rock | 2012-01-27 01:18 | 高齢者介護(認知症) | Comments(0)
三岸好太郎(1903~1934没、享年31才)と三岸節子(1905~1998没、享年93才)は、画家夫婦でした。
私は、同じ屋根の下で暮らす夫婦が、共に画家であるのは、至難の業(わざ)であろうと推察します。
a0212807_1145788.jpgさらに、お互いの絵にとっても百害あって一利なしではないかと思います。
そう考えると三岸好太郎と節子夫妻が、共に画家として美術史に名を残す質の高い絵を描いたのは、奇跡に近いと言えるでしょう。
だが、二人が夫婦として同じ屋根の下で生活したのは、短い期間でしたので、夫婦画家としての至難の業をクリアした奇跡の事例とは言えないでしょう。
妻三岸節子の人生には、女として母としての艱難辛苦(かんなんしんく)の前半生と、画家として活躍した後半生の、二つの人生がありました。
節子は、1905年岐阜県一宮市の資産家に生まれますが、彼女の人生は、いつも辛い方へ苦しい方へ展開していきました。
新進気鋭の画家三岸好太郎と恋に落ちた節子は、19歳で結婚しました。 (右、三岸好太郎「少年」1931年)
夫好太郎の自由な精神と絵の才能に惚れ込んだ妻の節子は、画家としての自分を捨て身も心も捧げました。
しかし夫好太郎の奔放な女性関係のために、結婚生活は苦しく、3人の幼子を抱え牢獄のようだったと述懐しています。   (下、三岸節子「19才の自画像」1924年)
a0212807_1155245.jpgその夫好太郎が、旅先の旅館で血を吐き倒れ、31歳の若さで突然病死しました。
それまで、自殺を考えるほど苦しんでいた節子は「ああ‥これで私は、生きていかれる」と思ったそうです。
その後、年下の画家と激しい恋をしますが、周囲の障害が大き過ぎて、お互い傷つき疲れ果て、彼女の人生は、また苦しく辛いほうへ向かいました。
60才を前に、それまでの暮らしを捨て、絵の制作に専念するため一人大磯に移り住み、夜明けとともに起き、畑仕事と絵を描くことに専念しました。
69才の時、フランスの陸の孤島のような片田舎に移り住み、農家をアトリエにして、油絵と格闘いたしました。
84才でフランスから日本に戻り、93才で亡くなるまで画家としての命の炎を燃やし続け、満開の桜の老木を描いた「さくら、さくら、さくらが咲いた(100号)」が、最後の作品になりました。
夭折の画家夫三岸好太郎は、生前「オレは、桜の花のような人生を送る」と言っていたそうですが、長寿の画家妻三岸節子は「長く生き続け、良い絵を描くことが、画家の人生だ」と反発したそうです。
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三岸好太郎と節子は、夫婦として短い縁(えにし)でしたが、画家として共に質の高い絵を遺した稀有な夫婦として語り継がれることでしょう。(上、三岸節子「魚とトウモロコシ」1961年)
by blues_rock | 2012-01-26 01:04 | 美術/絵画/彫刻 | Comments(0)
♪気が狂いそう‥で始まるザ・ブルーハーツ「人にやさしく」のタテのりビート・ロックが、テレビ・コマーシャルで流れた時、見ていた番組など忘れコマーシャルの時間が、待ち遠しかったことを憶えています。
a0212807_1343686.jpg「人にやさしく」は、1987年リリースなので、その頃のことだろうと思います。
テレビ画面下の隅に小さく「ザ・ブルーハーツ」とクレジットされた文字で、このバンドの名前を初めて知りました。
ザ・ブルーハーツのロックを初めて聴いた時の印象は、キレのあるタテのりエイト・ビートの疾走感からラモーンズのロックに似ていると思いました。
後日、ライブの映像を見ると、セックスピストルズのライブ・パフォーマンスにも似ており‥甲本ヒロトとジョニー・ロットンの何かにとり憑かれたような表情もどこか似ていて、しばらくブルーハーツは和製パンク・ロックバンドとばかり思い込んでいました。
しかし、それは私の間違いであったことが、1988年LPアルバム「トレイン・トレイン」を聴いて分かりました。
セックスピストルズ(1976~1978)の活動は、一年半でLPアルバム「勝手にしやがれ!!」(1977)を一枚残し、アメリカツアー中にヴォーカルのジョニー・ロットンが、脱退し解散してしまいました。
a0212807_2305797.jpg反抗的・反社会的な言動や態度、アルバム「勝手にしやがれ!!」収録の「アナーキー・イン・ザ・U.K.」の反キリスト教、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の王室批判など過激な歌で、当時失業と貧困に喘(あえ)ぐ労働者階級の若者たちのヒーローになったバンドでしたが、メンバーのアナーキーさは、自らのバンドも破壊してしまいました。
奇異な風俗、異様な外見(パンク・ファッションとヘアースタイル)を強調したパンクなパフォーマンスで一世を風靡しましたが、歌も演奏もヘタで‥ヘロインやコカインなどの薬物中毒でいつもメロメロであったシド・ヴィシャスのベースは、アンプに繋がれていなかったそうです。
ザ・ブルーハーツもルックスから一見パンク風にも見えますが、楽曲を聴くと分かるように「チェルノブイリ」での反核メッセージ、「1985」の反戦、「リンダリンダ」・「人にやさしく」・「トレイントレイン」・「青空」・「情熱の薔薇」・「夕暮れ」など恋人・弱者・敗者への共感メッセージ(やさしさ)が、ザ・ブルーハーツ・ロックの原点と思います。
a0212807_233657.jpgブルーハーツの詩(歌詞)は、2001年NHK教育TV番組 人間講座の「言葉の力・詩の力」で取り上げられ、彼らの詩の文学性が、高く評価されていました。
私が、とくに感心するのは、歌詞の中で、恋人や友達や仲間への眼差しの言葉が、常に「あなた」であることです。
自分の大切な人たちに対し「おまえ・君」とくだけた言葉ではなく、まして品性ない暴力的な言葉とは一線を引き、相手がダレであれ「あなた」と呼びかけ、「あなた」がいてくれて「ぼく」がいる世界が、ザ・ブルーハーツのロックでした。
それが、セックス・ピストルズような乱暴なパフォーマンスで、無秩序に破壊することだけを歌うパンク・ロックとの決定的な違いでした。
ザ・ブルーハーツについては、2011年9月16日のブログ「ザ・ブルーハーツ‥人にやさしく」で、すでに書きましたのでご覧いただけると幸いです。
by blues_rock | 2012-01-25 01:30 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)
a0212807_2313868.jpg私の働く福岡市南区の高齢者在宅介護事業所(デイサービスと小規模多機能ホーム)では、毎週火曜日の午後「絵画教室」を開いています。
その週によって画題も画材も違いますが、いつも共通するのは「自由に描くこと」がテーマです。
私たちの高齢者介護施設に来られて、初めて絵筆を取ったという方がほとんどで、ゴシゴシと屈託なく描いておられるので、絵が伸びやかです。
「絵画教室」に参加された10数名の高齢者の方々が、一心不乱に集中されている表情を見ていたら、板画家棟方志功(1903~1975没、享年72才)の表情を憶い出しました。
棟方志功は、青森県の刀鍛冶職人の三男として生まれました。
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彼は、18才の時見たゴッホの絵に強烈な影響を受け、絵描きになる志を立てからというもの毎日毎日「‥ゴッホ‥ゴッホ‥ゴッホ」とつぶやいているので、隣り近所の人たちから、棟方さんのウチの三男坊は、一年中カゼを引いて「ゴッホ‥ゴッホ」咳ばかりしている体の弱い青年とウワサされていました。
a0212807_2361321.jpg極度の近視で、分厚いレンズのメガネをかけている彼を見て、近所の人たちは、そう感じたのかもしれません。
彼の極度の近眼は、少年時代に囲炉裏(いのり)の煤(すす)で眼を病んだためと言われています。
21才の時上京し、極貧の中、靴の修理や納豆売りをしながら本格的に絵の勉強を始めました。
回りの人たちが、棟方志功にダレか有名な画家に師事したらどうかと助言されても「ゴッホは独学で絵を描いたから」と一切耳を貸さなかったそうです。
30代に版画家となり、1956年ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で、日本人初の国際版画大賞を受賞し、世界的な版画家になりました。
a0212807_2382683.jpg前年のサンパウロ・ビエンナーレでは、「釈迦十大弟子図」(1939年制作)で版画部門の最高賞を受賞しています。
この10枚の大作は、下書きせず板に直彫りし「私は、ホトケサマの手足となって、転げまわっているだけです。」とコメントしています。
棟方志功は、自分の版画を「板画(はんが)」と呼んでいました。
軍艦マーチやベートーベンの第九を口ずさみながら制作していたそうです。
50代に左目の視力を失いましたが、まだもう一つ目がありますからと、悪い右目を板にすり寄せて、板画の制作を続けました。
「わだばゴッホになる」
     詩:草野心平
鍛冶屋の息子は
相槌の火花を散らしながら
わだばゴッホになる
裁判所の給仕をやり
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで
わだばゴッホになる
とわめいた
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし
ゴッホにはならずに
a0212807_23112518.jpg
世界の
Munakataになった
古稀の彼は
つないだ和紙で鉢巻きをし
板にすれすれ獨眼の
そして近視の眼鏡をぎらつかせ
彫る
棟方志昴を彫りつける(志昴、原文のまま)
(付録)
2011年8月30日拙ブログ「高齢の画家たち」で、毎週火曜日午後の「絵画教室」作品を紹介しました。
認知症の方、九十才半ばの方など老アーチストたちの感受性の素直さ、感性の瑞々しさに驚きました。
by blues_rock | 2012-01-24 00:11 | 美術/絵画/彫刻 | Comments(0)
a0212807_1233079.jpgスターダスト・レビュー(通称スタ☆レビ)は、ヴォーカル&ギターの根本要(1957~)を中心に彼が友人と結成したバンドで1981年にデビュー、同時に1stアルバム「STARDUST REVUE」を発表しました。
全国各地でのコンサート公演やライブ活動に熱心で、コンサート会場に足を運んでくれるファンを何より大切にする姿勢は、デビュー以来ブレずに現在まで続いています。
自分たちのライブ・パフォーマンスを楽しんでくれているファンと一緒に、自分たちもライブを楽しもうという気持ちが一貫している息の長いロックバンドです。
ロックのライブに、まだ行ったことがなく、一度ロックコンサートに行ってみたいと思っている人には、スタ☆レビのコンサートを勧めていると言った音楽評論家がいましたが、なるほど‥上手いこと言うものだと思いました。
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彼らのコンサートに3回行きましたが、いつも満員で、彼らの少年時代から続くロックへの熱い思いそのままに、エンターティメント魂とファンへのサービス精神に溢れており、初めてコンサート会場でロックを聴く人たちには、スタ☆レビのライブは、最適だと私も思います。
a0212807_1252614.jpg根本要の伸びのあるハイトーンヴォーカルに併せ、アカペラやコーラスもすばらしく「木蘭の涙」などバラードのラブソングに名曲が、数多くあります。
私個人としては、根本要のロックンロールナンバーが好きで、日本で正統なロックンロールを歌える数少ないロックミュージシャンと思います。
彼は、世界のロック音楽史にも詳しく、テレビのロック大全集番組のMCを務め、番組にギターを持ち込み、ロック名曲のリフやサビを弾いて、どこが個性的で、どこが良いのかをロックミュージシャンとして丁寧に解説、その真摯な姿勢から心底ロックが楽しく好きなのが分かりました。
彼は、コンサートやライブ本番で歌詞を間違えることも多く、それをファンが気づいたり、何度も間違って演奏が中断したりのハプニングは当たり前‥それでも彼のMCトークに、メンバーもファンも大爆笑でライブが盛り上がるといったところに、スタ☆レビのバンドとしての真骨頂があるように思います。
a0212807_1263652.jpg根本要の長い爆笑MCで3曲しか演奏できなかったコンサートもあったとか‥彼はそれを反省し後日のコンサート冒頭に「今日は、あまり話さずに演奏を聴いていただきます。」とMCしたところ、ファンからブーイングにあったそうです。
とにかく、ファンあってのバンドの姿勢は2001年「100曲+1曲ライブ日本全国味めぐりお食事券付」の弁当付きコンサートや2007年「25年に一度の大感謝祭6時間ライブおやつ付き」コンサート‥指定された席からであれば、ステージのライブ撮影・録音自由にしたり、彼らの出身地である埼玉県物産展を同時開催したりと楽しくアイデア満載のユニークなロック音楽活動を続けています。
彼らには、還暦さらに米寿コンサート‥スターダスト・レビュー50周年金魂式ライブを期待したいものです。
(付録)
スタ☆レビの根本要については、「バラッドの名曲‥木蘭の涙」でも書いていますので併せてご覧いただけると幸いです。
by blues_rock | 2012-01-23 01:41 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)
ライ・クーダー(1947~)は、ギタリスト・歌手・作曲家(特に映画音楽)として活躍、多才な人だと感心します。
若い頃は、セッション・ギタリストでした。
a0212807_20173662.jpg1969年ローリング・ストーンズの「レット・イット・ブリード」にも参加、近年では1997年キューバ音楽の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」とのセッションで彼らを世界に紹介し注目を浴びました。
マンボ・サルサのルーツを求めてキューバ旅行した時、キューバ以外ではあまり知られていない老ミュージシャンたちとのセッションが、きっかけでした。
ライ・クーダーの卓越したスライド・ギターは、アメリカ音楽のルーツであるブルース・フォーク・ジャズ・ロックンロールを渋く独特の味わいのある音楽にしました。
アメリカ音楽の次は、隣のメキシコへ、そして海を越え沖縄からハワイさらにアフリカ・キューバ‥とワールド・ミュージックの源泉(ルーツ)を求め続けました。
彼のスライド・ギターの渋さと巧さは、1982年のアルバム「ザ・スライド・エリア」に凝縮されています。
a0212807_20184326.jpg当時日本では「アクロス・ザ・ボーダー」と「ビッグ・シティ」が、テレビのCMソングとして流れ、本人も映像で出演していました。
日本版LPレコードには、この2曲がボーナストラックとなり計10曲を収録、A面5曲目に「アクロス・ザ・ボーダー」、B面5曲目に「ビッグ・シティ」が入っています。
日本でのライ・クーダー人気は、この時のスライド・ギターで渋いブルースを歌うミュージシャンのイメージで定着、これには本人、少々不満だったそうです。
a0212807_20203640.jpg他の8曲のうち2曲に尺八が、使われており地味ながらも好い雰囲気を出しています。
A面1.アイ・ニード・ア・ウーマン(ボブ・ディラン)2.ジプシー・ウーマン(カーティス・メイフィールド)3.ブルー・スェード・シューズ(カール・パーキンス)とカヴァー曲が続き、他の5曲をオリジナル曲で構成、ライ・クーダーのスライド・ギターを心行くまで堪能できる名アルバムでした。
(追記)「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」とライ・クーダーのライブ映像は、1999年ヴィム・ヴェンダース監督(1945~)により記録映画として発表されました。
by blues_rock | 2012-01-22 20:49 | 音楽(Blues/Rock) | Comments(0)