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心の時空

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a day in my life

カテゴリ:人生/愛(Love)( 38 )

平安時代は、朝廷(天皇・公家)を頂点としたヒエラルキーの貴族社会で、藤原家を筆頭に平安貴族は、領地・荘園から上納される税金で優雅な生活をしていました。
京洛中での朝廷を中心とした雅やかな貴族たちの王朝政権も平安の世390年の浪費が祟り国家財政は破綻、社会体制は衰弱していました。
その社会体制の破綻(ほころび)を狙って、朝廷の警護を担っていた平家・源氏の武力集団が台頭し、朝廷(天皇)が下賜する官位を見返りに、朝廷の軍事力としてチカラを持ち始めました。
荘園貴族が、朝廷の臣下(公家)として支配した平安時代が終焉し、武力で国を治める武士の時代が始まろうとしていました。
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朝廷の皇位継承をめぐり天皇家は、璋子に縁(ゆかり)の深い皇族が対立し、摂関家の藤原ファミリーもまた摂政関白太政大臣の位をめぐり親子兄弟が分裂、平家・源氏の武家勢力もこれに巻き込まれ家族間の血で血を洗う内戦「保元の乱」が、勃発しました。
1156年「保元の乱」を鎮圧した後白河天皇(璋子の四男、1129~1192)は、再び藤原忠実を関白に戻し、藤原家出身の僧侶信西(美福門院得子が後ろ盾)をブレーンにして朝廷の大改革を断行していきました。
後白河天皇は、美福門院得子と信西の‘仏と仏との評定’で決めた得子の養子(鳥羽上皇の孫)に譲位(第78代二条天皇)、1158年後白河法皇となり1192年に亡くなるまで34年5代の天皇の上で院政を行ないました。
a0212807_8582423.png璋子の四男、後白河法皇が、第77代天皇に即位するとき朝廷内で「帝の器量ではない」
とか「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されましたが、天皇在位3年、法皇34年、計37年という長い期間、朝廷の中枢で院政を行ない、老練な政治センスを発揮しました。
私は、後白河法皇が朝廷史上ナンバーワンの統治者(ガバナー)と思います。
朝廷(宮中)では、公家を上手く使い、武家集団には、朝廷の権威(官位)と権勢(勅令)をチラつかせて武力対立させ双方と政治的駆け引きしをしながら見事な権力采配の手腕を発揮しました。
中世の歴史にその名を残す武力軍勢のリーダーたち‥平家の平清盛、源氏の源頼朝・義経、地方豪族の木曽義仲などに朝廷の威光(権威)を示しながら、官位と勅令の乱発で牽制し従属させました。
さらに平家と源氏、頼朝と義経とを対立させ、朝廷の権威をタテに官位と勅令によりお互いを煽(あお)り戦わせた政治的な才能は、天皇即位のとき「器量なく文武劣る」と宮中はおろか臣下に思わせ油断させたところに統治能力の片鱗を感じました。
美福門院得子は、鳥羽上皇の遺言で広大な荘園を遺産として受け継ぎ、当時最大の荘園主になりました。
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後白河法皇は、かって母待賢門院璋子のライバルであった美福門院得子を利用し、朝廷内で権力を持ち始めたブレーンの僧侶信西を平清盛に討たせ(1160年平治の乱)、勅令に従わない木曽義仲を源義経に追討させ、頼朝に無断で弟義経を検非違使(けびいし、治安部隊長官)に任じ、これに怒った頼朝とは政治的妥協をして、義経を京から追放しました。
西行と璋子(たまこ)の余話としてスタートしましたが、璋子の‘小説よりも奇なり’な人生ドラマに興味があり、西行の存在が希薄でした。
a0212807_13582283.jpg1145年に璋子が亡くなり、西行は璋子の親族が骨肉の争いをした1156年の保元の乱、1160年の平治の乱を真近かに見て世の諸行無常を知りました。
西行は、1190年72才で没するまで、畿内(吉野山・高野山)・東北(奥州)・四国を乞食行脚しながら和歌(うた)を詠み、京に還るたびに法金剛院(ほうこんごういん)に眠る璋子の墓参に行きました。
西行は、その生涯に2,090首の和歌を詠み、そのうち恋の歌が300首あまり、桜を詠んだ歌は230首ありました。(おわり)

何事の
    おわしますかは
             知らねども 
かたじけなくて
         涙こぼるる
西 行
by blues_rock | 2012-06-13 00:50 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
中公文庫「日本史を読む」から少し興味深い箇所を引用したいと思います。
璋子は、第72代天皇であった白河法皇から第77代天皇の後白河法皇まで、ひとりの女として、時に母として深く関わりました。
白河法皇は、璋子を寵愛していましたが、他にも中宮(皇后)・女御(側室)から白拍子(高級娼婦)に至るまでたくさんの女性がいました。
さらに「日本史を読む」によると法皇には、男色の嗜好もあったようで、白河院には舞踊人・稚児・北面武士などの美少年・若者たちが集いました。
余談ながら、関白忠実の次男頼長も、有名な男色家でした。
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頼長は、関白になってからも自分の男色嗜好を隠すことはなく、堂々と自分の日記「台記」に様々な男たちとの色事を包み隠さず記録していました。
平安時代の宮廷恋愛事情は、権力者(皇族・公家の男性)のほとんどがバイセクシャルで、女性が対象の場合は、正室に家柄・血筋の良い資産家(大荘園主)の娘を娶(めと)り、財力により複数の側室を囲い、彼女らに家の跡を継ぐ男子と天皇家への入内が叶う女子をできるだけたくさん産んでもらうこと(婚姻は血統書付の生殖‥家柄ブリーダーのようなもの)でした。
当時の風俗を記録した資料(個人の日記)によると、対象が男性の場合に初めて恋愛の延長線上にある性愛の享楽(アミューズメント)が成り立っていたようで、今の私たちの考えるゲイやホモセクシャルの概念とは違い、宮中においては、もっと一般的で普通の営みでした。         (下写真 : 関白藤原忠通、頼長は弟)
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紫式部が、書いた源氏物語の「雨夜の品定め」など‥さしずめ立烏帽子(たてえぼし)の若君たちが一室に集い、酒肴に興じながら宮中の姫君たち・女房たちのウワサ話や夜這して関係した女性たちの品定め‥艶話・悪口などで盛り上がった酒宴の情景が目に浮かぶようです。
紫式部は、光源氏の赤裸々な女性交遊は、微に入り細に入り書きましたが、男色(衆道)については一切触れていないので、彼女にとって衆道は、おぞましかったのか興味がなかったのか、いずれにしても関心の対象外だったと推察されます。
「日本史を読む」では、関白忠実が、主である白河法皇の願望した璋子と長男忠通との婚姻話をなぜ受諾しなかったのか、その理由が詳しく書かれています。
a0212807_21501421.jpg璋子について、関白忠実は、日記で「奇怪なる聞こえ」・「凡そ種々聞こえあり」・「実に奇怪不可思議の人」・「乱行の人」と彼女の素行の悪さを手厳しく非難しています。
この“奇怪なる”とか“乱行”とか、忠実が日記に書き残した言葉に、白河法皇と璋子との只ならない関係を暗示し伝えていると思います。
璋子が、5才のとき53才の白河法皇の養女となり年齢差48才の義理の父娘(おやこ)となり、その時から法皇は、璋子を片時も離さず可愛がり、璋子も法皇に甘えました。
璋子が、床に就く時には、法皇は添い寝をして懐に幼い璋子を入れて温めてあげていたそうです。
歴史学者(古代学)角田文衛教授(1913~2008)の著書「待賢門院璋子の生涯」(1975)によると、璋子は13才で初潮を迎えたという当時の記録があると書いています。
神道で女性の生理は不浄のものであり、神道の祭祀を司る天皇家では、女性が生理になるとその穢(けが)れのために宮中から出て、実家へ戻りお清めしなければなりませんでした。     (下写真 : 晩年の西行)
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中宮璋子の実家は、白河院でしたので璋子と法皇との関係は、璋子入内後も続いていました。
璋子は、5才から溺愛されてきた初老の白河法皇と新婚ホヤホヤながら自分より2才若い夫の15才の少年鳥羽天皇との間を行き来していたことになります。
当時の宮中では、暮らしていた女性たちの生理(宮中出入り)を記録する女官がいて、その記録が、資料として今に残されています。
関白忠実は、長男忠通と璋子との婚姻を拒否したものの璋子が、鳥羽天皇に入内することになると「入内 日本第一の奇怪事」と悪評しました。
鳥羽天皇と中宮璋子との間に晴れて長男皇子が、誕生したものの、璋子と法皇との関係を知っていた鳥羽天皇は、長男皇子をわが子と認めず「叔父子(おじご、祖父の子供なので叔父の意)」と呼んで忌み嫌いました。
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やがて鳥羽天皇は、上皇となり、叔父子と呼んだ長男皇子を第75代 崇徳天皇にしました。
待賢門院璋子は、法皇(=義父・愛人)・上皇(=夫)・天皇(=子供)との間を屈託なく行き来しながら暮らしていました。
璋子とは、皆仲が良く、とくに白河・鳥羽・璋子の三人は、一緒に寛ぎながら歓談することもあったとか‥一介の衆生には、高貴な公家方のアタマの中を計り知ることができません。
当時北面武士であり天才歌人と誉れ高い18才の佐藤義清(後の西行)が、どれほど34才の中宮璋子に横恋慕し、恋い焦がれても璋子の数多の男性関係から考えて、義清に出る幕は、ありませんでした。
佐藤義清は、23才のとき出家して名を西行と改め、吉野に入り草庵で暮らしながら四季を愛でながら、桜に璋子を想い合わせながら、数多くの優れた和歌を詠みました。(第六話、最終回に続く
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            春風の  花を散らすと  見る夢は    さめても胸の  さわぐなりけり
by blues_rock | 2012-06-11 00:19 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
怒り心頭の白河法皇は、「そなたには、金輪際もう頼まぬ、宮中から消えよ。」とばかり関白忠実を更迭(クビに)し、長男の忠通に関白を命じました。
この関白更迭事件は、藤原ファミリー内で父忠実と長男忠通の親子に亀裂が入り、この時から始まる摂政関白太政大臣(今の首相)の座をめぐる確執が、その後の「保元の乱」に大きく影響を及ぼすことになります。
話を前に戻して、彰子(やすこ)23才の時に一度キャンセルされた入内(中宮)話が、16年経っても独身の彰子39才に再び持ち上がりました。
この時すでに白河法皇はこの世になく、鳥羽天皇から関白に呼び戻され復権していた忠実は、独身でアラフォーの愛娘彰子を不憫(ふびん)に思い、鳥羽天皇に直訴して彰子を中宮(皇后)にしてもらいました。
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関白忠実の親としての面子は立ちましたが、鳥羽天皇には、すでに彰子より22才若い、寵愛する得子(なりこ)がいました。
彰子は、やがて高陽院彰子(かやのいんやすこ、1095~1156没、享年61才)となりますが、待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)とは、16年前の因縁で自分に代わり中宮となった相手なので仲良くできませんでした。
16年前の璋子入内に璋子が、恨まれる責任は、彼女にありませんが、彰子にとって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の思いだったのだろうと推察します。
高陽院彰子は、自分の年齢から鳥羽天皇との間に子供が、できないことは分かっていましたので得子(なりこ)の最初の子供(内親王)を養女にしました。
a0212807_0133075.jpgこのことで高陽院彰子と美福門院得子は、急接近、二人の年齢差が、22才と親子ほどもあり、その差のためか二人は、仲が良く、宮中における女院の勢力バランスは、次第に壊れて行きました。
さて、話を白河法皇~鳥羽天皇~璋子(たまこ)に戻します。
三人が、最初に出会うのは、白河法皇53才、鳥羽天皇3才、璋子5才の時でした。
白河法皇は、愛妾祇園女御の養女であった幼い璋子を溺愛しました。
私の手元にある中公文庫「日本史を読む」(中央公論新社)から少し興味深い箇所を引用しながら待賢門院璋子が鳥羽天皇入内するまでを述べたいと思います。
「日本史を読む」の内容は、丸谷才一(1925~、小説家・文芸評論家)と山崎正和(1934~、劇作家・文芸評論家)という当代きっての論客二人が、日本の歴史・文化史における重要な事柄を透徹した眼(見識)で分析した対論集です。
待賢門院璋子については、「院政期の乱倫とサロン文化」(P.55~P.98)の章で、院政期の宮中にいた一人の女性を実に明晰な切り口で語っています。
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天皇制を礎(いしずえ)にした院政という朝廷による国家統治システムが完成した平安時代末期、宮中では日本における宮廷文化が、成熟した時代でもありました。
当時の宮中では、和歌という吟遊芸術を通じて自由な男と女の関係を謳歌していました。
公家社会での男の価値は、出自(血統と家柄)、権力・権威、和歌(うた)のセンスの三つ、女の価値は、出自(家柄)と美貌さらに和歌(うた)のセンスでした。
璋子には、和歌(うた)のセンスは、なかったようで、彼女が詠んだ和歌は残っていません。
璋子は、幼いころから美少女の誉れ高く、自由奔放で屈託のない少女だったようです。
それに翻弄されたのが、50才代半ばの白河法皇でした。
「日本史を読む」の中で山崎正和は、白河法皇を「日本最初のロリコン」と喝破していました。(第五話に続く
by blues_rock | 2012-06-08 00:32 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)が、何よりすごかったのは、「保元の乱」(1156年)に関わった宮中の鳥羽法皇も崇徳上皇も後白河天皇も、すべて “璋子の家族” だったことです。
この皇位継承図を見ていただくとお分かりのとおり、72代・74代・75代・77代の天皇が、璋子の家族でした。
◆ (第72代) 白河天皇 → (第73代) 堀河天皇 → (第74代) 鳥羽天皇 → (第75代) 崇徳天皇→ (第76代) 近衛天皇→ (第77代) 後白河天皇と続きました。
◆ (第72代) 白河天皇 : 璋子を溺愛 ‥ 璋子の第1皇子である(第75代)崇徳天皇の父親と伝えられています。
a0212807_2237237.gif◆ (第74代) 鳥羽天皇 : 璋子の夫 ‥ 璋子との間に7人の子供がいました。 (第76代) 近衛天皇は、鳥羽上皇が寵愛した美福門院得子(びふくもんいんなりこ、1117~1160没、享年43才)との子供で、璋子の子供ではありません。
◆ (第75代) 崇徳天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第1皇子だが、鳥羽天皇は祖父の白河法皇と璋子との間にできた不義の子供と信じていました。
◆ (第77代) 後白河天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第4皇子、戦略家で藤原家出自の僧侶信西をブレーンとして重用、故近衛天皇の生母得子は、僧侶信西と謀(はか)り後白河天皇誕生に向け、反崇徳派で暗躍しました。
これが、待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)と歴代天皇との相関図です。
美福門院得子は、近衛天皇・鳥羽法皇ともに亡くなると仏門に入りましたが、表向き仏に仕えながら、相当の策略(戦略)家で、後白河派の僧侶信西と組み後白河天皇の即位に尽力しました。
待賢門院璋子と美福門院得子の二人とも藤原家の出身で、ともに鳥羽天皇の皇后となり、皇位継承権のある子供を生みましたので、宮中も待賢門院サロンと美福門院サロンが、でき対立していました。
それぞれのサロンは、朝廷の崇徳派、後白河派を巻きこみ、宮中は次第にドロドロに泥沼化し険悪になっていきました。
摂関家の藤原ファミリーの確執も関白の位(今の首相)をめぐる争いから始まりました。
a0212807_22571950.jpg朝廷の摂関家、藤原家ファミリー内も‘長男の忠通とその父忠実=次男頼長’が、関白の位をめぐり激しく対立しました。
この騒動に朝廷の警護役(北面武士)であった武家集団が、武力を背景に台頭し新興勢力の‘平家と源氏’を巻き込こんでいきました。
この皇位継承をめぐる朝廷内の権力闘争は、武士勢力も平家は平家ファミリー内で崇徳派と後白河派とが対立し、源氏もまたファミリー内で崇徳派と後白河派が、抗争を始めました。
そして、宮中・摂関家・武家集団すべてを巻き込み、オール崇徳派とオール後白河派に分裂して、骨肉の争いとなり、朝廷内は親子兄弟が対立して敵味方となり、ハチの巣を突いたような騒動になりました。
一方、宮中内の女院の確執も、鳥羽天皇の寵愛が、璋子から16才若い得子のほうへ移り、得子が、皇子(後の近衛天皇)を生んだことで、美福門院グループは、勢いづきました。
さらに朝廷の事態をさらに複雑にしたのが、白河法皇に仕えていた関白の藤原忠実でした。
関白忠実については、後ほど詳しく述べますが、彼の愛娘(嫡子で一人娘)彰子(やすこ)は、39才になってもまだ独身(ひとりみ)でした。
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関白忠実は、一人娘の彰子(やすこ)を幼いころから溺愛し、いずれ白河法皇の孫である鳥羽天皇の皇后(入内させ中宮)にするつもりでいました。
関白忠実は、当時の最高権力者であった白河法皇に無断で15才の鳥羽天皇に23才の彰子(やすこ)を入内させる約束をし、これが白河法皇の逆鱗に触れて、彰子の入内(中宮になる)話は、消滅しました。
彰子の代りに白河法皇は、17才の璋子(たまこ)を鳥羽天皇の中宮(皇后)にしました。
実は、関白忠実の愛娘彰子の入内話を白河法皇が、ニベもなく拒否した裏には、法皇と関白との抜き差しならない深いワケがありました。
a0212807_2371422.jpg白河法皇は、愛妾祇園女御の連れ子(養女)であった璋子(たまこ)を5才の時から自分の元で育てかわいがり溺愛しました。
璋子は、美しく成長し、10代半ばになると還暦(60才)を過ぎた法皇との良からぬウワサが、宮中で広がりました。
いつまでも璋子を自分のそばに置いてはおけないと思った法皇は、関白忠実に彼の長男忠通との婚姻を持ちかけました。
当時の白河法皇は、「賀茂川の水とスゴロクの賽と山法師だけは思うようにならない。」と自らシャレを言うくらい天下のことは、何でも自分の意のままにできる権力を持っていました。
そんな白河法皇に、関白忠実の返事は、いくら法皇が頼んでも「それだけはお受けできません。お断りいたします。」でしたから、白河法皇の堪忍袋の緒が切れました。
白河法皇をいたく立腹させるほど関白忠実が、息子忠通と璋子との結婚を頑(かたく)なに拒んだものは、いったい何だったのでしょうか?(第四話に続く
by blues_rock | 2012-06-06 00:14 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
保元の乱(ほうげんのらん)は、待賢門院璋子が、亡くなってから11年後の1156年に勃発しました。
天皇の皇位継承をめぐる朝廷の内部抗争(権力争い)で、璋子(たまこ)の子供二人を中心にした二大勢力による京都洛中での内戦でした。
一人は、璋子の長男である崇徳上皇(白河法皇との子供)、もう一人は、四男の後白河天皇(鳥羽上皇との子供)による朝廷を二分した権力争いでした。
璋子の死後、自分の子供二人が、皇位をめぐり血で血を洗う兄弟の諍(いさか)いするとは、璋子は想像もできなかったでしょう。                               (下写真 : 璋子の長男、崇徳天皇)
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ここに至る歴史の経過を記録に残された史実により述べたいと思います。
白河法皇の意向で、藤原璋子は、17才のとき、白河法皇の孫15才の鳥羽天皇に入内(じゅだい、中宮=皇后になること)しました。
2才姉さん女房であった璋子と鳥羽天皇は、仲睦まじく二人の間に 7年で 7人の子供が、誕生しました。
後ほど詳しく説明しますが、5才の養女璋子を育てたのが、義父白河法皇(第72代天皇)で、夫の鳥羽天皇=第74代天皇、長男の崇徳天皇=第75代、さらに四男の後白河天皇=第77代天皇と璋子は、常に天皇に囲まれて暮らしていました。                           (下写真 : 璋子の四男、後白河天皇)
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だが、第76代の近衛天皇は、鳥羽天皇の胤(たね)ながら、藤原得子(なりこ)後の美福門院得子(びふくもんいんなりこ)が、生んだ子供でした。
璋子より16才若く、美人の誉れも高かった得子(なりこ)は17才の時、鳥羽天皇に見染められ入内しました。
鳥羽天皇は、皇位を崇徳天皇(白河法皇と璋子の子供)に譲位すると上皇となり、鳥羽院に引きこもり得子を寵愛しました。
鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた得子が、皇子(後の近衛天皇、1139~1155没、享年17才)を産んだことにより朝廷内は、対立し風雲急を告げる展開になりました。        (下写真 : 璋子の夫、鳥羽天皇)
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鳥羽上皇の目の上の頭出腫(たんこぶ)であった白河法皇もすでにこの世になく、鳥羽法皇となると、自分が、譲位した崇徳天皇を今度は、無理やり退位させ、得子との間に生まれた 2才の近衛天皇を即位させました。
幼い近衛天皇の後見人として鳥羽法皇は、朝廷内に院政を敷きました。
近衛天皇は、生まれつき病弱で1955年に17才で病死、翌1156年には、後見人の鳥羽法皇も亡くなりました。
鳥羽法皇が、亡くなるのを待つかのように、同年1156年に保元の乱は、勃発しました。
朝廷を真っ二つにした皇位継承権をめぐる暗闘は、政権の主導権争いで摂関家の藤原家を分裂させ、親子兄弟間にあったドロドロの愛憎は、1156年鳥羽法皇の逝去でついに沸点(ピーク)に達しました。(第三話に続く
by blues_rock | 2012-06-05 00:00 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
いつも「心の時空」をご覧くださりありがとうございます。
おかげさまで拙ブログも丸1年が過ぎ、今日から2年目を迎えます。
とにかく一年間は、毎日書くことを自らの心に決め、何とか一年書き続けることができました。
これからも(できるだけ)毎日「心の時空」を書き続けていきたいと思います。
この一年の中で「西行と璋子(たまこ)」の記事を多くの方が、ご覧くださいました。
西行が、恋い焦がれた待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ、1101~1145没、享年44才))について、もう少し詳しく知りたいと藤原璋子の幼少のころからの出来事を調べましたら、日本史に登場する数ある女性の中でも璋子の存在と生涯は、日本の歴史の中で最も重要な意味をもつ女性でした。 (下写真 : 待賢門院璋子)
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璋子自身は、まさか自分が、平安末期、貴族社会の崩壊に巡り合わせ、さらに新興武家社会に変動していく時代の、正にその時代を担う中心人物たちに深く関わり合うなど夢にも想像していなかったことでしょう。
幼いころから美人のウワサはありましたが、和歌(うた)の才能に秀でていたわけではなく、それでも宮中内外の男性たちは、上は法皇から下は女院に仕える少年僧まで、彼女に心を奪われ男性にモテモテの女性でした。
平安時代当時の貴族の風潮とはいえ、とにかくいろいろな男性に愛され、その愛を受け入れながら、他の男性との恋愛にも自由でした。
北面武士として御所を警備していた若き日の佐藤義清(西行)も 16才年上の璋子に恋をしたその一人でした。
璋子は、少女の頃から美少女で天真爛漫、間違いなくチャーミングな女性であったろうと想像します。
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彼女は、何人かの男性と褥(しとね=ベッド)を伴にしていましたが、どの男性も璋子の男性関係で彼女を責めたり、そのことで璋子と別れることは、ありませんでした。
鳥羽天皇に入内し中宮(皇后)となっても璋子の自由奔放な生活が変わることは、ありませんでしたが、鳥羽天皇とは仲睦まじく、母となった璋子は、自分の子供たちにも他の子供たちにも同じようにやさしかったそうです。
子供たちには聖母のようで、男性には、気品があって色っぽく(今風なら上品かつセクシーで)男心をくすぐる小悪魔のようなキュートな女性‥こんなイメージでしょうか。
先日、訪問先で何気にテレビ(NHK-BS)を見ていたら「平清盛~保元の乱」を放送していました。
NHK歴史ドラマ「平清盛」の時代背景が、西行と璋子(たまこ)の生きた時代と重なるためか「西行と璋子(たまこ)」の記事を多くの方が読んでくださいました。
さて、前置きはこれくらいにして「西行と璋子(たまこ)」の余話ながら少し長くなりますが、璋子の生涯について時代背景を述べて、当時の璋子の存在が、いかに重要であったかを書き加えたいと思います。(第二話に続く
by blues_rock | 2012-06-04 01:00 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
霧の中を歩めば 覚えざるに衣湿る (正法眼蔵)
道元禅師の言葉です。
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できるだけ‥好きな音楽を聴き、できるだけ‥好きな映画や絵を見て、できるだけ‥好きなことに感動しながら、できるだけ‥平常心(平安な心)でいられたらいいな‥と私は、思っています。
「今日(こんにち)ただ今、正になすべきを、熱心になせ」は、禅の教えです。
by blues_rock | 2012-05-31 04:43 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
a0212807_2354147.jpg元号が、昭和から平成に変わった1987年(昭和62年)から1994年(平成6年)までの7年間、私は名古屋に住んでいました。
その当時の仕事(担当業務)は、国産原木乾椎茸の生産振興と市場の事業運営でしたので、原木乾椎茸の大生産地であった伊豆半島には、生産振興のための会議や研修会・講習会、販売打合など頻繁に出張しました。
行く先は、伊豆半島全域でしたが、宿泊するのはいつも修善寺のなじみの温泉旅館でした。
a0212807_23555849.jpg修善寺は、東海道新幹線を三島で降り、伊豆箱根鉄道駿豆(すんず)線に乗り換え、伊豆半島を少し入った終点の山あいにあります。
修善寺の地名は、鎌倉時代に建立の曹洞宗の禅寺「修善寺」に由来し門前町として営々と永らえてきました。
12世紀の平安末期から鎌倉時代にかけて伊豆半島は、謀反人(政治的罪人)の流刑地でしたが、伊豆は古くから温泉が湧き、21世紀の現在も伊豆半島には、数多くの温泉が点在しています。
平安時代の終わり、当時の京都(みやこ)で起きた朝廷(政権)内の権力闘争は、藤原公家=武家勢力の抗争に拡大し、平清盛率いる平家に敗れた源氏の一族も修善寺に流刑されました。
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私なら温泉いっぱいの伊豆半島に‘島流し’にされると知らされたら「やったァ、ハッピー!」と一応悲しい顔をして見せながら心の中で叫ぶことでしょう。
終点の修善寺駅の横を狩野川が、流れています。
その小川の真ん中に、独鈷の湯(とっこのゆ)という露天風呂があり、まわりからは丸見えでしたが、いつでも入浴できてお代はなし、湯加減も心地よく開放的でしたので、時間があればひと浴びしました。
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修善寺は、有名な観光地であり、その中でも独鈷の湯(とっこのゆ)は、大切な観光資源ながら露天風呂なので、まったくの丸見えは‥いくら何でも、と当時は板を打ち付けた囲いはありました。
名古屋に住まい働いていた7年の間、通算して半年くらい‥もしかしたらそれ以上の月数に相当するくらい伊豆半島には通いました。      (上写真:浄蓮の滝、下写真:旧天城トンネル)
a0212807_0133019.jpg伊豆は、自然に恵まれているので食べ物も美味しく、狩野川の天然アユ、肉質のしまった原木生椎茸の網焼き、沼津の食堂で食べた桜エビのかきあげテンプラ、確か西浦だったと記憶していますが、定置網にかかったバケツいっぱいのウルメイワシを海岸で手開きしながら伊豆のワサビを擂りおろして食べた美味しさなど今でも忘れられません。
四季折々の自然の中で、朝・昼・晩と露天温泉に浸かり、湯上がりには冷えたビールをプァ~と飲んで、夜の帳(とばり)の中でゆっくり伊豆の魚菜を肴(さかな)に‥♪熱燗とっくりの首つかんで、もういっぱいいかがなんて妙に艶っぽいね(旅の宿)と鼻歌まじりで暮らしたい、伊豆に‘島流し’にされたいなァ‥と夢想しながらぼんやり窓の外の竹林を眺めていました。
by blues_rock | 2012-05-28 00:24 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
私にとって新宿の街は、ひとりで映画を見に行くか、友だちと飲みに行くか、とくに東京生活最後の6年間は、西武新宿線沿線の東伏見(西東京市)に住んだこともあり「新宿ゴールデン街」には、よく行きました。
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新宿といえば「歌舞伎町」、JR新宿駅東口を出て靖国通りの向こう目と鼻の先に、女と男が昼夜を問わず、出会いを求め、あるいは快楽を求めて彷徨(さまよ)い歩く言わずと知れた“大遊戯場歓楽街”です。
歌舞伎町は、夜ともなるとギンギンギラギラやたらケバケバしいネオンが輝き、売り手のオンナたちと買い手のオトコたちの虚々実々の駆け引きが始まります。
a0212807_0363098.gifそして始発電車が動く未明まで嬌声・蛮声が止むことはありません。
この街に溢れるメガ・パワーは、大衆風俗と性産業の欲望マネーをエネルギー源にしています。
歌舞伎町の裏路地には、夜ともなると危ない場所もありますので、夜更けに足を踏み入れたことはありませんでした。
実はナイショで打ち明けると‥調子のいい居酒屋の呼び込みに騙(だま)されて、同僚数人と一回だけボラれたことがありました。
そんなわけで新宿では、ギンギラケバいネオン街は避け、靖国通りの新宿区役所前交差点から左に折れた花園神社横の「新宿ゴールデン街」へ出かけるようになりました。
ゴールデン街の狭い路地を歩き、窮屈な階段を2階に上がった小さなバーが、私のなじみの店でした。
a0212807_0423480.jpg年齢不詳のマスターが、7、8人も座ればいっぱいになるカウンターの向こうでひとり黙々と酔っぱらい相手に水割りウィスキーを作ってくれました。
薄暗い店内にはいつも岡林信康の歌が流れていました。
古くからバーの常連である飲み友だちによると遠い昔マスターは、一時岡林信康のマネージャーだったとか‥さもありなん、この店には昭和40年代の空気が、そのまま漂っていました。
今年2月21日の「浅川マキの世界」にもゴールデン街での出来事を書きましたので良かったらご覧ください。
by blues_rock | 2012-03-20 00:44 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
突然の転勤辞令で‘引越し’ばかりしていたころことをふと憶い出すようになりました。
働いていた農業団体は、転勤が多く、4年に一回くらいの割合で転勤と引越し(転居)をしてきました。
a0212807_1241672.jpgいつも突然、人事異動の発令があり、転居先が決まると、それまで生活していた居住地の荷物をまとめ、次の転居先に引越していきます。
私の暮らした場所は、福岡(博多)5年・東京(大田区)5年・神奈川(大和市)5年・愛知(名古屋)7年・兵庫(尼崎)3年・千葉(船橋市)2年・兵庫(尼崎)4年・東京(西東京)6年とまるでスゴロクのようでした。
現在(いま)住まうところは、福岡市南区の山裾です。
口の悪い友人は‥何を好んで、交通の便が悪く、中心街からほど遠い福岡市のチベットで暮らすのか?と冷やかしますが、私はおいしい水と自然豊かな不便さがあるからと答えています。
転勤のたびに任地を拠点にして、北は北海道から南は沖縄まで、その地域で生産された農畜産物の販売推進と生産振興を仕事にしてきました。
全国各地で、多くの農家・農協の皆様方、国産農産物を愛し食べてくださるお客様方にお会いしました。
赴任先の職場には、すばらしい人・つまらない人・誠実な人・ずるい人・明晰な人・無能な人・品性高潔な人・下品な人などいろいろな人たちがいて、社会の縮図を見るようでした。
仕事とはいえ、全国各地域の田畑・野山を歩き、日本農業の生産現場を見てきました。
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コンビニもない地域で暮らし、農を営み田んぼ・畑を耕して、農産物を生産する人たちに日本の食料自給率39%など話題にもなりません。
食料を自ら何も生産しないで、自分の命の糧(かて)を全部他者(地域や海外)にお任せ丸投げして、食料自給率の向上を主張するなど戯言(たわごと)です。
また外国の安価な輸入食品に、安心に見合う料金、安全の保障コストが含まれているとは考えられません。
消費者として食料価格が高いときは、その高い理由(わけ)を知り、輸入食品がl安いときは、なぜ安いのか安い理由(わけ)を一応調べておいたほうが、己が身のため家族のために安心できると思います。
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いま全国の地域(平野や里山)には、耕作を放棄された広大な田んぼ・畑が、荒れ地のまま放置されています。
今日小雪の舞う田んぼや畑にも、もうすぐ春が来ます。
やがて枯れ野は、一面緑で覆われ、菜の花が春の風にそよぎます。
冬の大地は、こざかしい傲慢な人間の都合など一切関係なく、悠久の自然の生命力に育まれながら、ゆっくり春の準備を始めています。
人生‥邯鄲(かんたん)夢の枕と懐うこの頃です。
by blues_rock | 2012-02-10 01:18 | 人生/愛(Love) | Comments(0)