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心の時空

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a day in my life

カテゴリ:金継ぎ/古美術/漆芸( 175 )

東アジア(日本・朝鮮・中国)の古陶磁・古窯の世界的な研究家であった小山富士夫(1900-1975)は、わが国の縄文・弥生土器から中世(平安・鎌倉時代)までの古陶を分類し、学術的に6か所の古窯で焼成された陶器であると「六古窯」という新しい古陶用語で呼びました。
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日本では、日本列島の先住民であった縄文人が、生活の中で土器という独特な“焼きもの”を発明しました。
それから弥生土器、土師器(はじき)、須恵器(すえき)と“焼きしめ”による焼成技術が発達し、鎌倉時代になると高温で焼成した陶器が誕生しました。
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瀬戸窯で初めて釉(うわぐすり)をかけた陶器(古瀬戸)が焼成され、同じころ常滑・越前・信楽・丹波・備前でも同じような焼成技術を使って暮らしに必要な陶器をまとめて生産する穴窯・大窯が現われました。
a0212807_23251392.jpg南北朝から室町時代になると鎌倉時代、中国渡来の禅宗によってもたらされた喫茶の風習が公家・武家・商家にも広まり、中国との交流・交易も活発になり大陸の陶磁器が、渡来するようになりました。
さらに戦国の世を経て安土・桃山時代になると村田珠光・武野紹鴎の「茶の湯」が広がり、千利休に受け継がれ、豊臣秀吉の朝鮮出兵により半島の陶器(生活雑器)が、大量に日本に渡来しました。
渡来品の中国陶磁器・朝鮮陶器の製陶技術は、日本独自の陶器を焼成していた「六古窯」に大きな影響を与え、窯・土・釉の研究・工夫・改良により桃山時代以降、日本の陶磁器生産は、技術革新しながら進歩し陶磁器を焼成する窯元も、良質な陶土と薪(赤松)を求めて全国各地に広がって行きました。
縄文土器の発明から1万数千年、日本の風土で育ち生粋の日本陶器を焼成した窯を学術的に「六古窯」と呼び中国・朝鮮古陶の影響を受けた桃山時代以降の窯と区別しています。
   ◆ 瀬戸(愛知県瀬戸市)
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瀬戸市の東南にある猿投山の山麓で焼きもの作りは始りました。
器の強度を高めるため釉(うわぐすり)をかけて焼くという本格的な技法をとっていたのは、当時の六古窯のなかで瀬戸だけでした。
他の窯では、焼きしめといって焼成温度を高めて堅くし吸水性がなくなるまで焼きしめていました。
   ◆ 古常滑(愛知県常滑市)
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古常滑と呼ばれる初期のものは歴史が古く、六古窯の中でも最も古く大規模でした。
須恵器の時代の平安末期までさかのぼり「壺や甕」が主な生産品でした。
   ◆ 古越前(福井県丹生郡織田町・宮崎村)
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古常滑と同じような歴史をもつのが、越前焼でした。
「壺や甕」が主な生産品なのは古常滑と同じですが、興味深いのは、室町時代以降、既婚女性用の「お歯黒壺」が盛んに作られました。
ロクロを用いない奇妙な形の小壺は、後年茶の湯に親しむ風流人に好まれ、一輪挿しなどに使われました。
時代とともに廃窯されて行き古越前焼の火が途絶えました
   ◆ 古信楽(滋賀県甲賀郡信楽町)
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信楽焼は、紫香楽(しがらき)宮の屋根瓦を焼くために始まりました。
大火で都が消失した後「種もみ用の壺」などで細々と窯は維持されておりましたが、室町時代になり、野趣豊かな土味を生かした素朴な風合いが、茶人たちの目に止まり、茶陶の生産地として発展しました。
   ◆ 古丹波(兵庫県篠山市立杭)
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六古窯の他の窯と同じような生い立ちで、「壺・甕・すり鉢」などの生活雑器を生産していました。
やがて茶人小堀遠州の好みによって、味わいのある茶陶が焼かれるようになりました。
蛇窯という穴窯で長時間焼かれ出来る「灰かむり」は、ダイナミックで重厚です。
   ◆ 古備前(岡山県備前市伊部)
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今では名陶や陶芸品の代名詞ともなった備前焼も、六古窯のひとつでした。
平安時代末期に窯が開かれた頃は「壺・甕・すり鉢」などの生活雑器を焼く普通の窯でした。
室町時代になると高温に耐える良質の陶土を生かし、2週間におよぶ焼成で徹底して焼きしめ、その長時間の焼成中で起こる窯変が、茶人の評判となり盛んになりました。
やがて茶陶が衰退すると古備前窯も次第に消滅していきましたが、終戦後金重陶陽(1896~1967)・藤原 啓(1899~1983)などの名匠(人間国宝)の手で備前焼は再興され有名になりました。
by blues_rock | 2012-07-30 00:04 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
朝日新聞の創業者村山龍平が、蒐集した東洋の古美術コレクションを収蔵し一般公開している美術館です。
阪急神戸線の御影駅から歩いて5分の閑静な住宅街に香雪美術館(こちら)はあります。
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私が見たい古陶の数は、多くありませんでしたが、古志野の水指・李朝の井戸茶碗・仁清の鴨香炉・龍泉窯の砧青磁花入などの逸品をゆっくり鑑賞しました。
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緑も多く環境の良いエリアなので散歩を愉しみ、三ノ宮まで足を延ばして神戸南京街で中華料理に舌鼓打つのも一興かと思います。
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横浜の中華街に比べても味に遜色はなく、何より好いのは料理の値段が、格段に安く、口コミで評判の良い店であれば味に引けはとりません。
  ◇ 志野松籬絵水指(桃山)
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  ◇ 井戸茶碗(李朝)
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  ◇ 野々村仁清「鴨香炉」(江戸前期)
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by blues_rock | 2012-07-21 00:40 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
料亭「吉兆」の創業者湯木貞一(1901~1997)による茶道具の個人コレクションを収蔵展示する湯木美術館は、大阪市中央区平野町の市街地にあり、御堂筋の平野町3丁目交差点からすぐのところにあります。
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湯木貞一は、若いころ出会った松平不昧(茶人)の書物に大きな影響を受け茶の湯を始め、とくに茶懐石から日本料理の神髄を学びました。
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彼は、生涯に亘って日本料理と茶の湯(茶懐石)との融合に努め、日本料理を文化として芸術の域にまで高め、その研鑚の中で、日本を代表する茶人であり数寄者たちと出会い、自らの茶の湯を究めていきました。
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余談ながら「松花堂弁当」は、茶懐石の弁当をヒントに湯木貞一が、創作した弁当として有名です。
IBMは、その松花堂弁当箱から自社のノートパソコンThinkPad(シンクパッド)のデザインを考案しました。
by blues_rock | 2012-07-19 00:23 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
関西(京都・大阪・兵庫)には、茶を嗜(たしな)む数寄者の古美術コレクションを一般公開したメセナ美術館が、少なからずあります。
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私が関西で見た古美術の個人コレクションの中からお気に入りの「数寄者の美術館」を紹介いたします。
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北村美術館」は、京都上京区河原町今出川のすぐ横を鴨川が流れる閑静な住宅街にある個人美術館で、茶の湯に秀でた数寄者のコレクションというだけあって、茶碗をはじめとした茶道具に好いものがありました。
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私が訪ねたときは、残念ながら茶室のある庭に入れず、自分の眼でまだ見ていませんが、趣味人らしい見事な庭との評判です。
by blues_rock | 2012-07-18 00:50 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
a0212807_12512860.jpg私の敬愛する白洲正子さん(1910~1998)が亡くなられて早14年‥2000年に滋賀県甲賀信楽町で「白洲正子の世界」特別展が開催され見に行きました。
JR琵琶湖線の石山駅から美術館までバスに揺られて1時間くらい、甲賀信楽まで山越えしなければならない不便なところにある美術館ながらバスが長いトンネルを抜けるといきなり目の前にデンと大きな近代的な建物が出現します。
美術館の持ち主は、ナントカという新興宗教法人なので普段なら、それだけで足が遠のき敬遠しますが、この時ばかりは、白洲正子さんの遺品160点を一挙公開展示する特別展でしたので、何ものにも代え難く、ウサン臭い宗教を嫌悪するわが生理感は、この際ぐっとガマンすることにしました。
交通の便の悪い甲賀信楽町の山中に、現代的建築の立派な美術館を開館し「白洲正子の世界」特別展を企画、3か月半もの長い間、開催するチカラは、美術館を所有するナントカ新興宗教法人の中に古美術の目利きで自分の意のまま美術館を運営できる人がいるのではないかと推察いたします。   ◇ 武相荘炉縁と鉄瓶(江戸時代中期)
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何はともあれ、白洲正子さん自論の「ドキドキさせるものが美しい」のとおり、生前きっとドキドキされながら普段使いされていた愛用品をご覧ください。
  ◇ 白漆鉢(奈良時代)
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  ◇ 古唐津盃(桃山時代)
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  ◇ 古絵唐津茶碗(桃山時代)
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  ◇ 紅志野香炉(桃山時代)
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  ◇ 堅手盃(李朝時代初期)
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  ◇ 神猿面(鎌倉時代)
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  ◇ 瀬戸麦藁手向付(江戸時代中期)
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  ◇ 瀬戸鉄釉掛分片口・瀬戸麦藁手片口(江戸時代中期)
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(付録)白洲正子考‥筑紫里子さん(歌人)からの手紙
by blues_rock | 2012-07-17 00:24 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
昭和5年、荒川豊蔵((1894~1985没、享年91才)が、岐阜県可児市(美濃)山中の古窯跡で‘古志野陶片’を発掘するという歴史的な発見で美濃古窯の発掘と調査・研究が一気に進みました。
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そのきっかけは、荒川豊蔵が、懇意の古美術商から「古志野竹の子絵茶碗」を見せてもらった時、茶碗の高台内側にわずかに付着していた‘赤い陶土’でした。             (写真上・下 : 豊蔵資料館)
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荒川豊蔵は以前から、古志野が瀬戸古窯で焼かれたとする言い伝えに疑問を持っていました。
瀬戸周辺の古窯に志野を焼成した窯跡がなく、古窯のモノハラに志野の陶片が、発見されませんでした。
a0212807_13153255.jpg‘赤い陶土’を手がかりに美濃に出かけ、以前織部の陶片を見つけた大萱の牟田洞古窯跡を詳しく調査したところ、名古屋で見た「古志野竹の子絵茶碗」と同じ古志野の陶片を発見し、古志野が美濃で焼かれたことを確信しました。(詳しくはこちらの2.古志野を参照ください。)
それから美濃周辺にあった古窯跡が、次々に発見され、美濃古窯の全貌も明らかになりました。
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桃山時代の古志野に陶芸の原点を求めていた荒川豊蔵は、「古志野竹の子絵茶碗」の陶片を発見した大萱に、桃山当時と同じ半地上式穴窯を築き、古志野の再現のために作陶を重ね、「荒川志野」と呼ばれる新しい古志野を焼成しました。                         (写真上 : 荒川豊蔵志野、銘「随縁」)
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可児市久々利大萱の荒川豊蔵窯跡に「豊蔵資料館」が建設され、荒川豊蔵の偉大な足跡と作品を見ることができます。          (写真上 : 荒川豊蔵「志野ぐい呑み」、写真下 : 加藤唐九郎「織部手鉢」)
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加藤唐九郎(1897~1985没、享年88才)については、こちらに書きましたので省略いたしますが、名古屋市守山区の「唐九郎記念館」と「愛知県陶磁器資料館」・「豊蔵資料館」の3館を巡る旅は、古陶ファンには、至福の時間と思います。                 (写真下 : 鼠志野茶碗、銘「峯紅葉」 五島美術館蔵)
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時間に余裕のある方は、少し足を延ばし土岐市の美濃陶磁歴史館に行くと、古唐津焼の流れをくむ元屋敷窯跡(国指定史跡)から出土した古志野や古織部など桃山陶の名品を見ることができます。
多治見市・可児市内にも古窯跡の発掘品と推察される古陶の名品が、小さな施設の片隅に何気なく展示されており「何でこんなところに」とビックリしました
by blues_rock | 2012-07-15 12:58 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
佐賀県有田市とならびわが国の二大磁器生産地である愛知県瀬戸市に愛知県陶磁資料館があります。
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2002年に見た「館蔵中世陶器<つぼ・かめ・すりばち>展」は、この美術館ならではの見事な展覧会でした。
陶磁器好きの人にとつて、ここは一日中いても退屈しない陶磁器の博物館です。
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とくに2階の陶片展示室には、壮観で美濃・瀬戸・常滑などを中心に全国各地の古窯跡や周辺のモノハラ(上写真)から発掘された陶片類が、部屋いっぱいに展示されていて、古陶磁と古窯に興味のある方には、数少ない絶好の研究場所(ここ以外で私は東京の出光美術館くらいしか知りません)です。
a0212807_2573066.jpg室町から安土・桃山時代にかけて村田珠光・武野紹鴎・千利休と受け継がれた“茶の湯”の作法と精神は、室町以前の喫茶(きっちゃ)で使われた端正な中国磁器から「わびさび」に美を求める茶の湯のために朝鮮古窯の雑器を見立て、同時に茶人の注文した日本独自の陶器を生み出しました。
当時の茶人たちの注文に応じ、瀬戸や美濃(土岐・多治見・可児)を始め伊賀・信楽、唐津などの古窯は、数多くの桃山陶の傑作を今に残しました。
江戸時代になると茶の湯も武家茶になり‘きれいさび’と呼ばれ、美濃焼の人気も下火となり陶工たちの自由奔放な「土と火と釉」の芸術性は失われ、窯も廃れ、やがて忘れ去られて窯跡さえも分からなくなり、歴史の中から消えて行きました。
a0212807_3121849.jpg後世に残された桃山古陶の中でとくに私が心魅かれるのは「古志野」です。
とにかく美しい‥昭和初期まで「古志野」は、窯跡も不明のまま瀬戸で焼成されたと言い伝えられてきました。
昭和初期、「古志野」の窯跡を発見し、現代に志野焼を再興したのが、荒川豊蔵(1894~1985、人間国宝)です。
この続きは、明日「豊蔵資料館と唐九郎記念館」で書きたいと思います。
by blues_rock | 2012-07-14 10:12 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
a0212807_2141790.jpg1610年から1637年までのわずか27年という短い期間、有田周辺の窯で焼成された染付磁器のことを「初期伊万里」と呼びます。
「染付(そめつけ)」とは、中国の「青花(せいか)」と同じ意味で、白地に藍色 1色で図柄を表した磁器です。
磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須(ごす)」(焼成後は藍色になる)で図柄を描き釉薬をかけて焼成しました。
とくに「初期伊万里」焼成の特徴の一つは、生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島の技法と同じ「砂」を用いましたが、中国では「胎土」を目積みの道具として用いました。
a0212807_219161.jpgさて、いまから400年前の1610年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1952年文禄の役・1598年慶長の役)で出陣した鍋島藩主鍋島直茂が、朝鮮半島から兵を引き上げる時、一緒に連れ帰った朝鮮陶工の一人“李参平”(鍋島藩に厚遇され名字“金ヶ江”を許され金ヶ江三兵衛と名乗る)によって有田(伊万里)に白磁鉱山を発見しました。
これが、400年脈々と続き今に至る有田焼の始まりです。
有田の人たちは、李参平を「陶祖神」として崇拝、陶山神社に祭り今に至っています。
a0212807_220027.jpg李参平の発見と焼成指導により白磁鉱山のまわりに、数多くの窯ができ、古(いにしえ)より日本人が憧れた中国景徳鎮窯のような「白磁」の焼き物が、日本で初めて誕生しました。
有田の陶工たちは、中国景徳鎮窯の磁器を学び研究を重ねて日本独特の「染付磁器」を焼成しました。
貴重な白磁器の誕生に鍋島藩主は大喜びし、1637年藩に「皿役所」を設け、すべての窯元を藩の管理統制下におくことで白磁焼成の技術と白磁石資源を独占しました。
a0212807_13123384.jpgその秘密情報を守るため有田周辺に数多くあった窯を13窯元に統合させ併せて陶工と家族の移動をすべて禁止、外界から隔離して鍋島藩御用窯(藩窯)を守りました。
1637年藩窯にしてから以降、陶工たちの仕事を分業させ、焼成技術が一つの窯、一人の陶工に集中しないよう徹底的に監視し、徳川幕府や諸大名への献上品・贈答品の最高級品だけ焼成させました。
藩主鍋島家お家安泰のための献上品・贈答品でしたので、最高の焼成技術をもった陶工たちの最高級品を納めさせました。
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余談ながら、瀬戸の貧しい窯元の次男であった加藤民吉が、陶器焼成の職を求めて天草に行き、さらに長崎を経由して密かに有田へ入り、磁器焼成の技術を学びました。
1806年瀬戸へ戻り、瀬戸を有田に匹敵する瀬戸磁器を育てあげ、磁器の代名詞が‘セトモノ’と呼ばれる礎(いしずえ)を作りました。
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とろりとした釉の色といい素朴なカタチといい「初期伊万里」は、日本磁器の原点で焼成された期間も極めて短く、焼成数も少ないので初期伊万里ファンにとってノドから手が出るくらいに欲しい古い器です。
by blues_rock | 2012-06-30 02:45 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)
金継ぎ工芸会の作品展が、福岡市天神のアクロス福岡(2階匠ギャラリー)で今週の月曜日6月25日から始まり日曜日の7月1日まで開催されています。                   (説明1 :下写真4枚、私の作品)
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金継ぎ工芸を始めて2年‥壊れた(ワレたりカケたりした)古い茶碗や皿を糊漆で繕って、呂色漆を塗っては乾かし、砥いで、時には漆にかぶれ猛烈な痒みに耐えて、また漆を塗って乾かし砥いでの繰り返しです。
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この一連の作業を繰り返すこと10~20回、その後やっと金を蒔いて乾かし仕上げ漆を塗って角粉で磨いて、やっと一つ出来上がり、この間、早くて1か月くらいかかります。
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古陶に興味のない友人は、首をひねりながら「そんな薄汚れ割れた茶碗にテマ・ヒマ・カネかけて、バカしゃないの?ワレた茶碗かかえ下向いて、ただ黙々作業している姿は気持ち悪い、見ていて暗い。新しい茶碗を買え
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ば‥」と言いたい放題です。
しかし、なんと言われても平気、古陶のカケラを弄っている時間が、楽しいのです。
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有名デパートの棚にならぶ銘入り箱付の立派で高価な陶磁器に、私はまったく興味ありません。
旧知の陶芸家から一昨年秋に、窯開きの案内があり窯元を訪ねました。
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彼の窯で焼いた器は、旧くから気に入り使ってきましたので7寸皿を2枚買いました。
それから1年あまり、気に入って買ったはずなのに食事していても、どうしてもしっくり来ないのです。
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気に入って買った皿なので、どうにかしようと思い、2枚の丸皿ともペンチで皿のふちを7~8㎝壊し、カケたところをパテで繕い、現在金継ぎ(梨子地)中です。
陶器に興味のない友人には、まだ黙っていますが、このことを話したらきっと呆れてしまうでしょうね。
by blues_rock | 2012-06-28 00:26 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(2)
金継ぎ技法のひとつに「呼び継ぎ」という技術があります。
いまこれに挑戦し取り組んでいます。
数百年前の古窯で生産された生活陶器・・甕(かめ)・壷(つぼ)・茶碗・皿類で窯キズやカケ・ワレなど商品にならない陶器陶片類は、当時古窯跡の近くの“モノハラ”(陶片を廃棄した場所)に棄てられていました。平安から鎌倉時代に中国から禅宗仏教が伝来し、併せて「禅の喫茶」も始まり、次第に喫茶は広まりました。
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室町時代になると「草庵の茶」が始まり、創始者 村田珠光(1422~1502、室町中期の禅僧)と「侘茶」の実践者 武野紹鴎(1502~1555、室町後期、堺の豪商)、そして桃山時代「茶の湯」の祖 千利休(1522~1591)に受け継がれ、侘茶は、中国伝来品のコピーであった日本の作陶を一変させ精神性の高い「茶の湯」の道具にしました。
当時の陶工たちは、良質な「土(原料用陶土)」と「薪(生成用燃料)」を求めて・・美濃・瀬戸・常滑・丹波・越前・信楽・備前・唐津などの山里に窯を移しながら移動していました。
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窯も山の傾斜を利用した「登り窯」でしたので、移動していくうちに古い窯跡は朽ち果て所在すら分らなくなっていました。
「茶の湯」は、江戸時代になると古田織部・小堀遠州・松平不昧に受け継がれていきました。
明治時代岡倉天心の「茶の本」により「茶の湯」の精神が再評価され、古陶古窯の見直しも始まりました。
古陶・古窯の名品類や完品は大名物・名物と称され、銘が付けられて所有者の家宝として納まっていました。
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明治・大正・昭和になると高麗・李朝時代の古い朝鮮陶器も注目され、数奇者(目利きの愛好家)の収集対象となりました。
そのような時代背景もあり、中国・朝鮮・日本各地に点在する古窯の調査が始まりました。
発見発掘された古窯の窯跡やモノハラから数多く出土した古い陶片が、役人の言う学術調査や文化財保護法など役所の都合で未だにコンテナに入れられたまま倉庫の奥に埋もれています。
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これでは、山里の土の下に埋もれていても、都会のコンクリート施設の中にあっても古窯の陶片が埋もれていることに変わりありません。
出光美術館(東京)では、小川富士夫が中国・日本の古窯跡で発掘した多くの陶片類を見ることができます。
愛知県陶磁器資料館(愛知県瀬戸市)には、猿投・美濃・瀬戸・常滑の古窯跡から発掘された古陶磁の陶片類が、広いフロアーいっぱいに展示されています。
a0212807_0333491.jpg私たちの公的財産ならそれくらいのことはしてもらいたいと思います。
さて、「呼び継ぎ」についてですが、① まず古窯の同じ窯跡・モノハラから出土した陶片を手に入れます。
② その陶片の中から、同じような絵柄・色合いのものを数枚選び出します。
③ 出来上がりをイメージしながら組み合わせ、電動カッターとグラインダーで整形します。
④ そして整形した陶片を組み合わせ、糊漆でつなぎ、刻苧(こくそ)・切粉(きりこ)・錆漆(さびうるし)の順できれいに継ぎ合わせます。
⑤ 下地が、きちんと固まったら呂漆を塗り乾いたら砥石(サンド・ペーパーなど)で磨き、また漆を塗り乾かし磨き‥
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を繰り返し、⑥ 最後に金を蒔いて磨きあげ、新しい器に仕上げます。
これを「呼び継ぎ」と言い、完品にはない個性的で美しい‘オンリーワン’の陶器が、出来上がります。博多は、唐津に近いので今でも時どき、古唐津の陶片を手に入れることができます。
割れたり欠けたりした陶片を手の中で組み合わせながら、古唐津の陶工たちの感性と「新しい古唐津」の姿を想像するのも「呼び継ぎ」の楽しい作業の一つと思います。
(画像コメント)下2つの画像は「骨董じじばば」のコレクションです。
by blues_rock | 2012-05-15 00:15 | 金継ぎ/古美術/漆芸 | Comments(0)