山の焚火 シネマの世界<第575話>
監督(と脚本)は、スイスの映画監督フレディ・M・ムーラー(1940~)です。
映画は、世界的に有名なスイスの児童文学「アルプスの少女ハイジ」と同じアルプス山岳の大自然の中で、電気も水道もない人里から遠く離れたアルプス山中で自給自足同然の生活をしながら、清貧に暮らす父母姉弟一家4人を巡る哀切な物語を描いています。
映画に映るアルプスの美しい自然の有り様は、「山の焚火」と「アルプスの少女ハイジ」同じものかもしれませんが、ストーリーは、ハイジのように素朴で清純ではありません。
この映画の見どころを云うならアルプスの春から冬にかけての壮大な自然ですが、ムーラー監督は、夏の季節までをアルプス山岳の自然に抱かれて暮らす家族4人、父(ロルフ・イリッグ)、母(ドロテア・モリッツ)、教師を夢見るも学校に行かず家族と暮らす年ごろの姉ベッリ(ヨハンナ・リーア)、家族が、‘坊や’と呼ぶ聾唖(ろうあ)の弟(トーマス・ノック)の毎日を淡々と描いて行きます。
1984年夏、聾唖者である坊やの日課は、父親の仕事で一家の経済を支える酪農を手助けすることでした。
姉弟は、いつも一緒で仲が、良く坊やは、姉のベッリを慕い彼女が、坊やに読み書きを教えていました。
坊やは、無邪気でわがままなのか幼いのか、時として発作のように奇怪な行動(癇癪)を起こしますが、家族は、困ったものとして見過ごしていました。
夏の終わり牧草刈りの手伝いをしていた坊やが、故障して動かなくなった草刈り機に腹を立て、あろうことか父親の見ている前で草刈り機を崖から突き落として壊してしまいました。
激怒とする父の顔を見て坊やは、家出し山上の古い小屋へ行き一人暮らしを始めました。
山小屋には、備蓄用の缶詰が、あるものの両親は、内心心配していました。
姉ベッリは、弟のために食料や蒲団を届けました。
姉と弟は、山の頂で焚火を囲み、久しぶりに一緒に食事をしながら仲良く寛いだ時間を過ごしました。
夜も更け辺りが寒くなると二人は、寄り添うように同じ布団に入り抱き合い眠りました。
夜明けに目が、覚めると裸で蒲団に寝ている二人は、無言で見つめ合い蒲団から出て服を着ました。
二人の性行為は、近親相姦ながら性欲の衝動というより仲の良い姉と弟との自然な成り行きでした。
この映画を見て私は、中山あい子の短編小説「奥山相姦」を読んだとき感じた切なく哀しい性の自然な本能‥「山の焚火」の姉弟には、「奥山相姦」の母子のような性の生々しさはないものの、ほのかなエロティシズムはあり、ふとそれを憶い出しました。
秋が、深まり雪の季節を前に父親は、坊やを迎えに山小屋に行きました。
姉ベッリは、母親に妊娠していることを打ち明けますが、母親は、娘の妊娠もその父親が、坊やであることもすでに知って黙認していました。
母親は、姉ベッリの妊娠を受け入れますが、母親から話を聞いた父親は、狂乱し散弾銃を持ち出して二人とも殺すと息巻き姉ベッリに銃を向けました。
それを見た坊やが、止めようとしてもみ合いになり銃が、暴発し父親は、死んでしまいました。
その一部始終を見ていた母親は、あまりのショックに持病の喘息発作を起こし母親も亡くなりました。
アルプスに雪が、しんしん降りしきる中、姉ベッリと弟の坊やは、二人で両親の葬式を行なうのでした。
ムーラー監督の演出は、終始淡々としていますが、葬式の夜、悲しみの静寂の中で、カタカタカタと振動しながらテーブルの上で動くカップは、近くで発生した雪崩を連想させ(雪崩のシーンはありません)アルプス山岳の厳しい冬と姉弟たった二人で、これから産まれてくる子供を育てていかなければならない現実を暗示させる上手い演出だなあと感心しました。
アルプスの美しい情景を幻想的に撮ったピオ・コラーディ撮影監督(1940~)のカメラワークも見事です。