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心の時空

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古唐津余話‥風雲「名護屋城」

秋の一日、唐津の「名護屋城」を訪ねました。
佐賀県唐津市に在る安土桃山時代の城跡「名護屋城」は、1591年に太閤となった天下人の豊臣秀吉(1537~1598)が、自らの野望「唐入り(東アジア支配)」のために軍事拠点として諸大名に築城普請させたものです。
a0212807_1625879.jpg築城当時「名護屋城」は、大坂城に次ぐ大きな城で太閤秀吉の号令のもと突貫工事により何と8か月で5層7階の城を完成させました。
そして、この「名護屋城」の周囲118か所に秀吉の権威を示すため諸大名の陣営を設けました。
現在、65か所の陣跡を遺構として見ることができます。
太閤秀吉は、この城から外征(「唐入り」のための‘朝鮮出兵’)の大号令を発し1592年朝鮮出兵(文禄の役)する20万余の軍勢(大艦隊)を見送り、1598年には、第二次朝鮮出兵(慶長の役)の14万軍勢(大艦隊)を見送りました。  (上写真:「名護屋城」史跡から眺める玄界灘、正面彼方に‘壱岐’が見えています。)
1592年、日本国の独裁者(絶対君主)となった太閤秀吉の頭には、朝鮮半島を領有し「唐入り」(明朝中国を支
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配)した後、天竺(インド)と南蛮(ヨーロッパ)を征服するという途轍もない世界制覇の野望がありました。
ジャンケン後出しで思考する後世の歴史家たちは、太閤秀吉の妄想を嗤いますが、私は、インターネットも軍事人工衛星もなかった5世紀前に、自らの野望を実現しようと実行に移した絶対君主(7つの海を支配した大英帝a0212807_16312146.jpg国の絶対君主エリザベスⅠ世1533~1603と同時代)が、この国にいたことを驚きます。
ルイス・フロイス(1532-1597 キリスト教イエズス会の宣教師)は、安土桃山時代の日本に35年間滞在し、イエズス会の布教活動と共に日本の文化や風俗を記録(「日本史」)しています。  (上写真:現在の大阪城‥これと同じような城を8か月で建築し秀吉没後に廃棄とは モッタイナイ)
ルイス・フロイス(右下彫像)が、記録した報告書には、織田信長が「毛利元就を滅ぼし日本66か国を平定したa0212807_16545184.jpg後、大艦隊を率いて中国に渡り明を武力で征服する。日本国は我が子たちに分かち与える。」と記してあります。
1982年、織田信長が、明智光秀のクーデター(本能寺の変)により暗殺されると信長の野望(世界制覇の意志)は、信長を崇拝する秀吉に引き継がれました。
1592年5月18日付の太閤秀吉から関白豊臣秀次(1568~1595 秀吉の甥)に宛てた書状には、「宮中を高麗に置き、3年後天皇を北京に移し10か国を朝廷の領地とする。秀次を大唐(中国)の関白に就任させ100か国を与える。自分(秀吉自身)は、一旦北京に入った後、天竺と南蛮を征服するため寧波(ニンポー 浙江省の港町)に移る」とありました。
そのための軍事拠点として築かれたのが、唐津の「名護屋城」でした。
朝鮮半島で交戦した豊臣秀吉を最高司令官とする日本軍(総兵力50万)と朝鮮を支援する明の中国軍(推定兵力50万)の戦争は、双方の軍事力から見て16世紀最大の戦争でした。
a0212807_172367.jpg気性が激しく即断即決の独裁者である太閤秀吉に対し甥の関白秀次は、穏やかで思慮深い性格であったと云われています。
秀吉の強引な‘朝鮮出兵’に心中、不本意(反対)であった諸大名たち‥1467年の「応仁の乱」から続く内戦(戦乱の世)を終え、心身、財政ともに疲弊していた大名たちを慮(おもんばか)った関白秀次は、太閤秀吉から朝鮮出兵の命に背き出陣しようとせず、「名護屋城」築城に多額の出費をした諸大名(例えば毛利家)の財政窮乏を救済するため、聚楽第a0212807_1731967.jpg(豊臣政権の政庁)の金庫から秀吉に無断で貸し付けていたことなどを謀反の罪に問われ切腹させられました。
1598年、‘朝鮮出兵’の総司令官太閤秀吉が、没すると朝鮮にいた諸大名は、一斉に撤退し帰国、この時に茶の湯を嗜む大名たちは、多くの朝鮮陶工を同行して帰国、彼らに名字帯刀を与え、唐津・伊万里(有田)を中心に今日に至る日本陶磁器の礎を築きました。(参考:有田窯の陶祖 李三平についてはこちら / 下写真:古唐津 鉄絵柿文三耳壺 重要文化財)
a0212807_179555.jpg太閤秀吉の死で疾風怒濤の風雲「名護屋城」も廃城になりました。
秀吉が、名護屋城に滞在したのは、延べ日数にしてわずか1年2か月、滞在中は、戦況の報告を受けたり、明の情報を集めるためイエズス会宣教師たちに謁見したり、何より山と海に囲まれた豊かな唐津の自然を満喫し大いに茶の湯を愉しんでいたそうです。
その様子は、映画「利休」のなかで描かれていますのでご覧いただくと大いに参考になると思います。
by blues_rock | 2015-10-22 02:22 | 社会/歴史/思想 | Comments(0)