私は、「古唐津」も好きですが、何と言っても「古志野」の優雅な艶っぽさは、私の心を捉えて離しません。
名古屋(千種区見附)に暮らし小牧で働いた7年間、錦や女子大小路あたりをウロウロと飲みまわらないで、もっともっと美濃や瀬戸の古窯を訪ねておけば良かったなと今更ながら後悔しています。 (下写真:銘「
振 袖」)
‘志野’の語源は、他の古窯のように地名からの名ではなく、室町中期の香道家にして茶道家志野宗信(1441~1522)に由来すると伝わっていますが、正確なところは、分かっておりません。
古志野は、長い間、瀬戸の古窯で焼成された陶器と考えられていました。 (下写真:国宝 銘「卯の花墻」)
荒川豊藏(1894~1985 人間国宝
こちら)は、名古屋で見た古志野茶碗の高台に付着した‘土’に見憶えがあり、1930年(昭和5年)‘美濃(岐阜県可児市久々利大萱)’の牟田洞古窯跡から古志野の陶片「古志野筍絵陶片」を発見しました。 (古志野窯の詳しいことについては
こちらをご覧ください。)
荒川豊藏の類稀な慧眼と行動力がなかったら、いまでも古志野窯は、歴史のナゾに包まれたままであったろうと推察します。
室町時代の末期、戦国の世に戦乱を避けた瀬戸の陶工たちが、美濃の奥地に移住して築窯、古志野は、桃山
時代天正から文禄(1573~96)のころ、その美濃の地で焼成されたわが国最初の白釉古陶です。
この牟田洞古窯の穴窯(大窯)からは、国宝の「卯の花墻」を始め数多くの古志野の名品が、誕生しました。
古志野を焼成した美濃古窯の記録や桃山陶作陶の文献は、残っておらず、徳川幕府の治世となり茶の湯が、
変化すると「美濃青磁」と呼ばれる御深井のような陶器を焼成するようになり、やがて古窯の歴史から消えてしまいました。 (上写真:志野茶碗 銘「広沢」 重要文化財 湯木美術館)
荒川豊藏は、岐阜県可児市久々利大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、桃山陶の古志野を
再現、多くの荒川志野の逸品を発表しました。 (上写真:鼠志野輪花草花文鉢 東京国立博物館)
古志野窯は、軽質の柔らかい百草土(もぐさつち)に鬼板(おにいた)を塗り、志野釉(長石釉)をかけて登り穴窯で焼成、白釉と緋色の個性的な色合い、形、景色三拍子そろった美しい志野茶碗を数多く生み出しました。
(上写真:鼠志野秋草文額皿 メナード美術館)