本阿弥光悦
(下写真:白楽茶碗 銘「不二山」 国宝 サンリツ美術館)
やがて「琳派」は、京都から江戸に主流を移し「江戸琳派」となり尾形光琳(1658~1716)、
酒井抱一(1761~1829)、鈴木 其一(1796~1858)と300年に亘り、受け継がれていきました。
本阿弥光悦は、刀剣の‘折り紙’つまり天下(公け)の刀剣鑑定・刀剣研磨など刀剣の目利きを家業とする本阿弥家に生まれ、刀剣の折り紙(証書)発行が、生業(なりわい)でしたので光悦も自ずと書家として有名でした。
刀剣を家業とするだけに刀の鞘に不可欠な漆にも造詣深く、茶の湯を古田織部(1543~1615)から、作陶を楽
近代の名陶工の加藤唐九郎は、本阿弥光悦について「光悦の無キズの茶碗は、本物じゃない。キズのないものは、捨てている。茶の湯の名器に無キズのものはない。光悦は、わざと山キズ(窯キズ)のできる土を使い、作りかけのような高台にしている。」と書いています。
現在、「伝 光悦作(光悦写し)」も多数ありますが、本阿弥光悦作陶の特長をはっきりと表わした「光悦茶碗」の2口は「国宝」ならびに6口が「重要文化財」に指定され、これ以外にも光悦ならではの名碗が10数客あります。 (上写真:赤楽茶碗 銘「加賀」 重要文化財 相国寺承天閣美術館)
本阿弥光悦は、1615年に天下人となった徳川家康から京都洛北の鷹峯に領地を受け、本阿弥家の刀匠・工芸・陶芸の匠など才能ある職人たちを集め工匠村(光悦村)を営みました。
当時、本阿弥光悦が、住んでいた屋敷の跡が、現在の光悦寺(都市北区鷹峯光悦町)です。
(左写真:赤楽筒茶碗 メトロポリタン美術館)
(右写真:膳所茶碗 赤楽を好まなかった小堀遠州が、徳川将軍に茶を点てる茶碗として光悦に作らせたもの)
(左写真:赤樂兎文香合 重要文化財 出光美術館)
(右写真:舟橋蒔絵硯箱 国宝 東京国立博物館))
(左写真:名勝 本法寺庭園 「巴の庭」)