ショーン・ペン~希代の名優にして名監督(上) シネマの世界<第444話>
映画人ショーン・ペンについて私は、思いのほか書くことが、多く、三夜連続で記事にすることにしましたので、もし良かったら読んでください。
長じて名優にして名監督となったショーン・ペン(1960~)は、父親が映画監督、母親は女優という正しく映画人になるべくして生まれ育ちました。
‘栴檀(せんだん)は、双葉より芳(かんば)し’の例えそのままに幼いころから映画や演技に関心を示し、その才能を発揮しました。
ショーン・ペンが、俳優としてデビューしたのは、1981年の映画「タップス」で21才の時でした。
気性の激しいショーン・ペンの性格と極端なマスコミ嫌いは、デビュー当時から数年、ハリウッドのトラブル・メーカーとしてタブロイド紙(芸能新聞)の餌食(カモ)になりに芸能ゴシップのネタを振りまきました。
マドンナ(1958~ 左写真)と1985年に結婚するも彼の暴力沙汰で1989年に離婚しました。
そんな生活環境にあっても1991年、こつこつと書き続けた自伝的な脚本「インディアン・ランナー」で監督デビューしました。
1996年女優のロビン・ライト(1966~ 下写真)と結婚二児(娘・息子)を儲けました。
息子の名前ホッパー・ジャックは、敬愛する先輩俳優デニス・ホッパーとジャック・ニコルソンから名付けたものです。
1998年「キャスティング・ディレクター」の演技でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞、1995年のベルリン、1997年のカンヌとヨーロッパ三大国際映画祭において主演男優賞を受賞するという快挙(誰もが認める実力ある俳優の証し)を成し遂げました。
アメリカのアカデミー賞も「デッドマン・ウォーキング」、「ギター弾きの恋」、「 アイ・アム・サム」の名演技が、高く評価され、その度に主演男優賞の候補となるものの、いつも受賞式をボイコットする態度に反感をもたれ受賞を逃して来ました。
イラク戦争の開戦直前、2002年12月にイラクを訪ねニューヨーク・タイムズ紙一面に反戦の意見広告を掲載、俳優生命を失うかもしれないリスク(危険)を背負ってまで戦争反対の自己主張をしました。
2003年出演作品「21グラム」と「ミスティック・リバー」ともに映画関係者の高い評価を得てショーン・ ペンの演技は、大絶賛されました。
「21グラム」の主演でショーン・ ペンは、2度目のヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞、「ミスティック・リバー」では、アメリカ国内の映画賞を独占、ショーン・ ペンのアカデミー賞受賞式への出席が、注目の的となりました。
ゴールデン・グローブ賞主演男優賞を受賞したショーン・ ペンは、いつものように授賞式を欠席しましたが、代理でトロフィーを受け取った「ミスティック・リバー」の監督クリント・イーストウッドの受賞スピーチに感激してアカデミー賞授賞式へ初めて出席、主演男優賞のオスカー像を受け取りました。(中へ続く)
茶碗に興味があるもので、以前の旧唐津銀行での「呼継展」にも駆けつけました。その後、ぐうぜんこちらのブログを知り、未だにシャッターが開いているのを見たことのない「骨董じじばば」について触れてあるのをうらやましく思いながら拝見しております。
3連休最後のきょうは、思いきって「玄洋窯」富永さんを訪問。正面堂堂、元福岡市長/玄洋社社長の新藤一馬の筆による揮毫があったのにはオドロキ!で「じじばば」のほうはきょうも休みでした(ナミダ)
ちなみに・・・マドンナの顔ですが、彼女は今まで太ったり/化粧がケバかったりで、いわゆるノーマル顔がよくわからなかったのですが、このたび了解しました(苦笑)
一見ジュリアンムーア似ですが、松坂慶子っぽくもあるような。もともと似ているといわれている二人ですケド、まさかマドンナがソレ系だとは意外でした★ではまた。
「骨董じじばば」は、毎週土・日の二日間オープン、気さくなオーナー(女性)なので、ふらり訪ねられると良いと思います。
玄洋窯に行かれたとか、いかがでしたか?
これからもどしどしコメントください。
お待ちしています。
玄洋窯をおとずれたのは夕方おそく、さっと見せていただいただけなのです。それでも伊羅保(・・・黄瀬戸?)の薄づくりには瞠目しましたね。案の定地元のかたでしたから近日ゆっくりと再訪予定。
で急ぎ質問を・・・記事中にインサートされる画像のあざやかさにいつもおどろかされます。まさか怖ろしく高価なスキャナーをお使いなのでしょうか?ほぼ毎回の手間ヒマを思うと・・・いやはや頭が下がりますデス(^^;)
伊羅保の土を薄くひいた形の好い茶碗は、持ったときの手触りといい軽さといい魅力的です。
写真は、何を隠そう自分の文章力の稚拙さをごまかすため、いろいろなところからお借りし楽しみながらやっています。