幕末太陽傳と川島雄三監督 シネマの世界<第414話>
‘キネマ旬報誌’による「映画人が選んだ日本映画史上の名作100選(2009)」で「幕末太陽傳」は、第4位にランクされています。
川島監督は、1944年(昭和19年)32才のとき、助監督から監督に昇格しますが、筋萎縮性側索硬化症という難病を発症、歩行障害などを伴う持病を抱えながら映画監督として肉体と精神の折り合いを「過酷に自分を痛めつけること」で解決しようとしました。
家を持たない無頼な私生活の中で川島監督は、日本軽佻派と称し、自嘲しながら卑俗で露悪的な表現で見る者を挑発する一方、含羞(がんしゅう 意味は、羞恥心、恥じらい)に富んだ品格ある人間賛歌のコメディ映画‥人間の本性をシニカルにユーモアたっぷりに笑いとばし、プログラム・ピクチャー(営業優先の娯楽映画)も含めると川島監督は、45年の生涯で喜劇、風俗劇合わせて51本の映画を撮りました。
さて、川島監督39才の時に撮った「幕末太陽傳」は、幕末の品川宿に実在した遊郭「相模屋」を舞台にした群像劇(ぐんぞうげき)です。
川島監督は、この映画の主役「居残り佐平次」に‘軽喜劇’俳優のフランキー堺(1929~1996 出演時28才)を抜擢、そのフランキー堺は、川島監督の才気煥発、シニカルにしてユーモアあふれるコメディを‘重喜劇’と呼びました。
川島監督の愛弟子であった名匠今村昌平監督(1926~2006 こちら参考)が、この映画の助監督と脚本(当時31才)を務めています。
カメラは、昭和31年の売春防止法成立で寂れていく品川の赤線地帯(相模屋があった遊郭街)を映しながら、幕末の品川宿に遡り、遊郭「相模屋」内に移動していきます。
明治まで後6年と風雲急を告げる幕末の品川宿は、武士(勤皇の志士)・町人・遊女など雑多な人々で賑わい猥雑ながらもエネルギーに満ちていました。
日本映画史にのこる名作「幕末太陽傳」の映画としての感動とすばらしさは、映画を見ていただかないと分かりませんのでぜひ一度ご覧ください。
「幕末太陽傳」には、群像劇の傑作、フランス映画の「天井桟敷の人々」(こちら)と同じ完成度を感じます。
出演している俳優陣も主演の居残り佐平次役フランキー堺を軸に遊女役の左幸子(1930~2001、当時27才)、左幸子と遊女同士の伝説的な取っ組み合いケンカシーンを演じた遊女役の南田洋子(1933~2009、当時24才)ほか、川島監督は、売れっ子スターの石原裕次郎(1934~1987、当時23才)を脇役に配し、芦川いづみ(1935~、当時22才)、金子信雄(1923~1995、当時34才)、山岡久
だ」を、いつも口にしていました。
川島監督、最期の映画(遺作)となった「イチかバチか」の公開5日前、肺機能不全で急死、享年45才の若さでした。
映画のラスト・シーン(下写真)のエピソードとして当初、川島監督の脚本には、居残り佐平次が、品川宿(撮影所)から逃亡し現代(昭和32年の当時品川)へ飛び出していくという突拍子もないアイデアでした。
川島監督は、贔屓の俳優フランキー堺演じる自分の分身佐平次で「積極的逃避(さよならだけが人生だ)」を映像にしようとしました。
あまりにも斬新過ぎる脚本に製作スタッフや出演者たち全員が反対(貸本屋金造役の小沢昭一だけが「おもしろい」と言ったそうです)しました。
主演のフランキー堺にも反対された川島監督は、居残り佐平次が、ついに品川宿の遊郭「相模屋」を飛び出し、海沿いに逃げるラスト・シーンにしました。
フランキー堺は、後日談として「あのとき川島監督に賛成しておくべきだった」と語ったそうです。
川島監督のこの斬新な映画作りの発想は、8年後の1965年、フランス、ヌーベルバーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督作品「気狂いピエロ」(こちら)に生かされました。