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心の時空

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a day in my life

東アジアの古代史(前編:白村江と大野城)

私の住まう福岡市南区に隣接する大野城市には、‘大宰府’の史跡があります。
‘大宰府’を防衛した大野城(おおののき)・水城(みずき)の遺構とその歴史に興味がありました。
このところの中国(尖閣列島)・韓国(竹島)との島をめぐる領有権争いは、古代から今に至るまで延々と続く“東アジアの歴史”そのものです。                         (下写真:大野城 おうののき 跡)
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大宰府といえば、菅原道真(845~903)伝説の地ですが、それより歴史を遡ること200年前の663年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ、現在韓国の錦江)の戦いで、倭国(日本)と百済(西韓国)連合は、唐(中国)と新羅(東韓国)同盟にコテンパンに遣っ付けられ、白村江(はくすきのえ)の戦いに大敗した倭国(日本)は、大あわてで大宰府を国防上の総司令部にしました。
a0212807_23242921.gifそもそも朝鮮半島白村江(左地図)の戦いは、朝鮮半島(高句麗・新羅)を支配した中国(唐)が、日本(倭国)に侵攻するため百済を支配したことで始まりました。
韓族王朝(国家)であった百済の反中国軍は、仏教を通して交流のある日本(倭国)に援軍を求め、百済=倭国連合軍と唐=新羅同盟軍は、白村江(はくすきのえ)河口で激突しました。
倭国(中大兄皇子、後の天智天皇)が、三派に分けて派遣した援軍5万人、多数の船を持っていたにもかかわらず白村江(錦江)河口の潮の干満も調べず、火炎武具も備えず戦略もないまま「とにかく先に攻めよ、敵は怖気づいて逃げ出すに違いない」というズサンな戦術(日本書紀の記録)でした。
a0212807_23525357.jpgこの時、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち、400隻余りが炎上、沈没しました。
中国(唐)の脅威と覇権に国家存亡の危機を感じた天智天皇は、白村江(はくすきのえ)の大敗から2年後の665年、国防上の総司令部‘大宰府’を防衛するため大宰府の北に(博多湾に向かって)山城の大野城を、大宰府から博多湾に流れる御笠川の上流には、水城(写真上と下は水城跡)を築城しました。
大野城は、典型的な古代山城(こだいさんじょう)で朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)です。
歴史の文献に朝鮮の文字はありませんが、白村江で敗北した百済人の生存者は、倭国に逃れ日本の国防とa0212807_23585021.jpg政治の近代化に貢献したであろうことは、白村江の戦いの後、地方豪族の支配する小国並存の倭国から大和朝廷中心の中央集権システム国家(律令制国家)日本へ脱皮していく歴史のなかで、土木建築の遺構や仏像・漢字(表記文字)などの遺物が、証明していると思います。
後編に続く)
by blues_rock | 2012-11-05 00:30 | 社会/歴史/思想 | Comments(0)