牧谿と等伯(後)
30才を過ぎて上洛し京都画壇へデビューしました。
桃山時代の京都にあって利休ほか茶人や大名たちと交わり、長谷川等伯の才能が、開花しました。
40才を過ぎたころから京都でも有名な絵師の一人となり、画号を‘等伯’と称するようになりました。
当時京都洛中で宮中・寺院の障壁画の仕事を一手に仕切っていたのが、狩野派でした。
長谷川等伯を知る大名たちの推薦で退位した天皇の住まう「仙洞御所対屋(せんとうごしょついのや)」の障壁画を長谷川等伯が、依頼されました。
これに慌てたのが、狩野派の総帥狩野永徳で、等伯への障壁画依頼を必死で妨害し宮中に取り消させました。
50才を過ぎると長谷川等伯は、自らの画境を牧谿の水墨画の中に求め、牧谿の画に漂う空気感を自らのものにし「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」を完成させました。
晩年等伯は、法眼の僧位になりますが、町絵師を続けながら、自らは町衆の有力者の一人として寺院の建立・寄進などの社会貢献に努めました。
70才を過ぎた1610年、長谷川等伯は、旧知の徳川家康の招きで江戸に向かいますが、旅の途中発病し江戸到着の2日後に亡くなりました。
享年72才でした。
(写真上と左) 重要文化財「枯木猿猴図」 京都、龍泉庵所蔵
長谷川等伯は、京都大徳寺にある牧谿「観音猿鶴図」(こちら中段の画)を見て感動、牧谿を求め学ぶために「枯木猿猴図」を描きました。