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心の時空

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a day in my life

孫文と庄吉(後)

話を本題に戻し、2012年現在のギスギスした日中関係を踏まえて、「孫文と庄吉」の話をしたいと思います。
a0212807_23573386.jpg孫文は、「中国革命の父」として国家体制を超えて二つの中国国民から尊敬されていることは、先に述べたとおりです。
孫文には革命家の自分を理解し、孫文の目指す民族主権革命を支持、経済的にも精神的にも全面的に支援してくれる日本人の盟友がいました。
その日本人が、梅屋庄吉(1868~1934)でした。
梅屋庄吉は、実業家で日活の創始者です。
1895年香港で写真館を営んでいた庄吉の常連客にイギリス人医師がいました。
イギリス人医師は、彼のもとで働いていた同じ年頃の孫文を梅屋庄吉に紹介しました。
孫文29才、庄吉27才の時でした。
明治維新を成し遂げた日本人の庄吉と欧米列強国の植民地であった中国の独立を願う孫文とは、同じアジア主義の理念をもつ同志として強い友情で結ばれました。
孫文は、日本の明治維新を手本に満州人王朝の清朝を倒すため、漢民族中心の五族融和(現中国は56民族から成る国家)を目指し中国の近代化革命に決起しました。
中国革命のリーダーであった孫文は、清朝政府からつねに命を狙われました。
心配した庄吉は、孫文を日本に亡命させ、匿(かくま)い庇護し、中国革命と生活の援助を行ないました。
孫文が、革命遂行のために帰国してからも、庄吉は、映画事業で得た収益のほとんどを孫文の中国革命資金として経済援助を続けました。
梅屋庄吉は、生前の遺言で孫文への資金援助記録を残さないよう妻徳子と側近に命じていましたので出納簿a0212807_054526.gifや財務書類などによる詳細は不明ですが、その額ざっといまの金額に換算して2兆円余りと言われます。
孫文は、中国・台湾では‘孫中山’と言ったほうが、中国人には馴染み深いと思います。
孫文は、亡命中に東京で見た民家の表札にあった「中山」をいたく気に入り、亡命先の日本では、日本人名を「中山樵(なかやまきこり)」と称していました。
自分の揮毫する書の号には「孫中山」と書くようになり、中国に帰国すると「孫中山」を自分の名としました。
孫文は、日本に亡命している時、日本人女性と結婚、娘が生まれました。
その孫文の血を引く子孫が、日本に存命されています。
「中国人孫文と日本人庄吉」の友情と絆もまた、長い日中の歴史の中での事実です。(余話に続く
by blues_rock | 2012-10-01 00:33 | 社会/歴史/思想 | Comments(0)