初期伊万里
「染付(そめつけ)」とは、中国の「青花(せいか)」と同じ意味で、白地に藍色 1色で図柄を表した磁器です。
磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須(ごす)」(焼成後は藍色になる)で図柄を描き釉薬をかけて焼成しました。
とくに「初期伊万里」焼成の特徴の一つは、生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島の技法と同じ「砂」を用いましたが、中国では「胎土」を目積みの道具として用いました。
さて、いまから400年前の1610年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1952年文禄の役・1598年慶長の役)で出陣した鍋島藩主鍋島直茂が、朝鮮半島から兵を引き上げる時、一緒に連れ帰った朝鮮陶工の一人“李参平”(鍋島藩に厚遇され名字“金ヶ江”を許され金ヶ江三兵衛と名乗る)によって有田(伊万里)に白磁鉱山を発見しました。
これが、400年脈々と続き今に至る有田焼の始まりです。
有田の人たちは、李参平を「陶祖神」として崇拝、陶山神社に祭り今に至っています。
李参平の発見と焼成指導により白磁鉱山のまわりに、数多くの窯ができ、古(いにしえ)より日本人が憧れた中国景徳鎮窯のような「白磁」の焼き物が、日本で初めて誕生しました。
有田の陶工たちは、中国景徳鎮窯の磁器を学び研究を重ねて日本独特の「染付磁器」を焼成しました。
貴重な白磁器の誕生に鍋島藩主は大喜びし、1637年藩に「皿役所」を設け、すべての窯元を藩の管理統制下におくことで白磁焼成の技術と白磁石資源を独占しました。
その秘密情報を守るため有田周辺に数多くあった窯を13窯元に統合させ併せて陶工と家族の移動をすべて禁止、外界から隔離して鍋島藩御用窯(藩窯)を守りました。
1637年藩窯にしてから以降、陶工たちの仕事を分業させ、焼成技術が一つの窯、一人の陶工に集中しないよう徹底的に監視し、徳川幕府や諸大名への献上品・贈答品の最高級品だけ焼成させました。
藩主鍋島家お家安泰のための献上品・贈答品でしたので、最高の焼成技術をもった陶工たちの最高級品を納めさせました。
1806年瀬戸へ戻り、瀬戸を有田に匹敵する瀬戸磁器を育てあげ、磁器の代名詞が‘セトモノ’と呼ばれる礎(いしずえ)を作りました。