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心の時空

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西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第六話、最終回)

平安時代は、朝廷(天皇・公家)を頂点としたヒエラルキーの貴族社会で、藤原家を筆頭に平安貴族は、領地・荘園から上納される税金で優雅な生活をしていました。
京洛中での朝廷を中心とした雅やかな貴族たちの王朝政権も平安の世390年の浪費が祟り国家財政は破綻、社会体制は衰弱していました。
その社会体制の破綻(ほころび)を狙って、朝廷の警護を担っていた平家・源氏の武力集団が台頭し、朝廷(天皇)が下賜する官位を見返りに、朝廷の軍事力としてチカラを持ち始めました。
荘園貴族が、朝廷の臣下(公家)として支配した平安時代が終焉し、武力で国を治める武士の時代が始まろうとしていました。
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朝廷の皇位継承をめぐり天皇家は、璋子に縁(ゆかり)の深い皇族が対立し、摂関家の藤原ファミリーもまた摂政関白太政大臣の位をめぐり親子兄弟が分裂、平家・源氏の武家勢力もこれに巻き込まれ家族間の血で血を洗う内戦「保元の乱」が、勃発しました。
1156年「保元の乱」を鎮圧した後白河天皇(璋子の四男、1129~1192)は、再び藤原忠実を関白に戻し、藤原家出身の僧侶信西(美福門院得子が後ろ盾)をブレーンにして朝廷の大改革を断行していきました。
後白河天皇は、美福門院得子と信西の‘仏と仏との評定’で決めた得子の養子(鳥羽上皇の孫)に譲位(第78代二条天皇)、1158年後白河法皇となり1192年に亡くなるまで34年5代の天皇の上で院政を行ないました。
a0212807_8582423.png璋子の四男、後白河法皇が、第77代天皇に即位するとき朝廷内で「帝の器量ではない」
とか「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されましたが、天皇在位3年、法皇34年、計37年という長い期間、朝廷の中枢で院政を行ない、老練な政治センスを発揮しました。
私は、後白河法皇が朝廷史上ナンバーワンの統治者(ガバナー)と思います。
朝廷(宮中)では、公家を上手く使い、武家集団には、朝廷の権威(官位)と権勢(勅令)をチラつかせて武力対立させ双方と政治的駆け引きしをしながら見事な権力采配の手腕を発揮しました。
中世の歴史にその名を残す武力軍勢のリーダーたち‥平家の平清盛、源氏の源頼朝・義経、地方豪族の木曽義仲などに朝廷の威光(権威)を示しながら、官位と勅令の乱発で牽制し従属させました。
さらに平家と源氏、頼朝と義経とを対立させ、朝廷の権威をタテに官位と勅令によりお互いを煽(あお)り戦わせた政治的な才能は、天皇即位のとき「器量なく文武劣る」と宮中はおろか臣下に思わせ油断させたところに統治能力の片鱗を感じました。
美福門院得子は、鳥羽上皇の遺言で広大な荘園を遺産として受け継ぎ、当時最大の荘園主になりました。
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後白河法皇は、かって母待賢門院璋子のライバルであった美福門院得子を利用し、朝廷内で権力を持ち始めたブレーンの僧侶信西を平清盛に討たせ(1160年平治の乱)、勅令に従わない木曽義仲を源義経に追討させ、頼朝に無断で弟義経を検非違使(けびいし、治安部隊長官)に任じ、これに怒った頼朝とは政治的妥協をして、義経を京から追放しました。
西行と璋子(たまこ)の余話としてスタートしましたが、璋子の‘小説よりも奇なり’な人生ドラマに興味があり、西行の存在が希薄でした。
a0212807_13582283.jpg1145年に璋子が亡くなり、西行は璋子の親族が骨肉の争いをした1156年の保元の乱、1160年の平治の乱を真近かに見て世の諸行無常を知りました。
西行は、1190年72才で没するまで、畿内(吉野山・高野山)・東北(奥州)・四国を乞食行脚しながら和歌(うた)を詠み、京に還るたびに法金剛院(ほうこんごういん)に眠る璋子の墓参に行きました。
西行は、その生涯に2,090首の和歌を詠み、そのうち恋の歌が300首あまり、桜を詠んだ歌は230首ありました。(おわり)

何事の
    おわしますかは
             知らねども 
かたじけなくて
         涙こぼるる
西 行
by blues_rock | 2012-06-13 00:50 | 人生/愛(Love) | Comments(0)