ブログトップ | ログイン

心の時空

yansue.exblog.jp

a day in my life

西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第四話)

怒り心頭の白河法皇は、「そなたには、金輪際もう頼まぬ、宮中から消えよ。」とばかり関白忠実を更迭(クビに)し、長男の忠通に関白を命じました。
この関白更迭事件は、藤原ファミリー内で父忠実と長男忠通の親子に亀裂が入り、この時から始まる摂政関白太政大臣(今の首相)の座をめぐる確執が、その後の「保元の乱」に大きく影響を及ぼすことになります。
話を前に戻して、彰子(やすこ)23才の時に一度キャンセルされた入内(中宮)話が、16年経っても独身の彰子39才に再び持ち上がりました。
この時すでに白河法皇はこの世になく、鳥羽天皇から関白に呼び戻され復権していた忠実は、独身でアラフォーの愛娘彰子を不憫(ふびん)に思い、鳥羽天皇に直訴して彰子を中宮(皇后)にしてもらいました。
a0212807_0115439.jpg
関白忠実の親としての面子は立ちましたが、鳥羽天皇には、すでに彰子より22才若い、寵愛する得子(なりこ)がいました。
彰子は、やがて高陽院彰子(かやのいんやすこ、1095~1156没、享年61才)となりますが、待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)とは、16年前の因縁で自分に代わり中宮となった相手なので仲良くできませんでした。
16年前の璋子入内に璋子が、恨まれる責任は、彼女にありませんが、彰子にとって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の思いだったのだろうと推察します。
高陽院彰子は、自分の年齢から鳥羽天皇との間に子供が、できないことは分かっていましたので得子(なりこ)の最初の子供(内親王)を養女にしました。
a0212807_0133075.jpgこのことで高陽院彰子と美福門院得子は、急接近、二人の年齢差が、22才と親子ほどもあり、その差のためか二人は、仲が良く、宮中における女院の勢力バランスは、次第に壊れて行きました。
さて、話を白河法皇~鳥羽天皇~璋子(たまこ)に戻します。
三人が、最初に出会うのは、白河法皇53才、鳥羽天皇3才、璋子5才の時でした。
白河法皇は、愛妾祇園女御の養女であった幼い璋子を溺愛しました。
私の手元にある中公文庫「日本史を読む」(中央公論新社)から少し興味深い箇所を引用しながら待賢門院璋子が鳥羽天皇入内するまでを述べたいと思います。
「日本史を読む」の内容は、丸谷才一(1925~、小説家・文芸評論家)と山崎正和(1934~、劇作家・文芸評論家)という当代きっての論客二人が、日本の歴史・文化史における重要な事柄を透徹した眼(見識)で分析した対論集です。
待賢門院璋子については、「院政期の乱倫とサロン文化」(P.55~P.98)の章で、院政期の宮中にいた一人の女性を実に明晰な切り口で語っています。
a0212807_0145388.jpg
天皇制を礎(いしずえ)にした院政という朝廷による国家統治システムが完成した平安時代末期、宮中では日本における宮廷文化が、成熟した時代でもありました。
当時の宮中では、和歌という吟遊芸術を通じて自由な男と女の関係を謳歌していました。
公家社会での男の価値は、出自(血統と家柄)、権力・権威、和歌(うた)のセンスの三つ、女の価値は、出自(家柄)と美貌さらに和歌(うた)のセンスでした。
璋子には、和歌(うた)のセンスは、なかったようで、彼女が詠んだ和歌は残っていません。
璋子は、幼いころから美少女の誉れ高く、自由奔放で屈託のない少女だったようです。
それに翻弄されたのが、50才代半ばの白河法皇でした。
「日本史を読む」の中で山崎正和は、白河法皇を「日本最初のロリコン」と喝破していました。(第五話に続く
by blues_rock | 2012-06-08 00:32 | 人生/愛(Love) | Comments(0)