ブログトップ | ログイン

心の時空

yansue.exblog.jp

a day in my life

西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第三話)

待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)が、何よりすごかったのは、「保元の乱」(1156年)に関わった宮中の鳥羽法皇も崇徳上皇も後白河天皇も、すべて “璋子の家族” だったことです。
この皇位継承図を見ていただくとお分かりのとおり、72代・74代・75代・77代の天皇が、璋子の家族でした。
◆ (第72代) 白河天皇 → (第73代) 堀河天皇 → (第74代) 鳥羽天皇 → (第75代) 崇徳天皇→ (第76代) 近衛天皇→ (第77代) 後白河天皇と続きました。
◆ (第72代) 白河天皇 : 璋子を溺愛 ‥ 璋子の第1皇子である(第75代)崇徳天皇の父親と伝えられています。
西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第三話)_a0212807_2237237.gif◆ (第74代) 鳥羽天皇 : 璋子の夫 ‥ 璋子との間に7人の子供がいました。 (第76代) 近衛天皇は、鳥羽上皇が寵愛した美福門院得子(びふくもんいんなりこ、1117~1160没、享年43才)との子供で、璋子の子供ではありません。
◆ (第75代) 崇徳天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第1皇子だが、鳥羽天皇は祖父の白河法皇と璋子との間にできた不義の子供と信じていました。
◆ (第77代) 後白河天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第4皇子、戦略家で藤原家出自の僧侶信西をブレーンとして重用、故近衛天皇の生母得子は、僧侶信西と謀(はか)り後白河天皇誕生に向け、反崇徳派で暗躍しました。
これが、待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)と歴代天皇との相関図です。
美福門院得子は、近衛天皇・鳥羽法皇ともに亡くなると仏門に入りましたが、表向き仏に仕えながら、相当の策略(戦略)家で、後白河派の僧侶信西と組み後白河天皇の即位に尽力しました。
待賢門院璋子と美福門院得子の二人とも藤原家の出身で、ともに鳥羽天皇の皇后となり、皇位継承権のある子供を生みましたので、宮中も待賢門院サロンと美福門院サロンが、でき対立していました。
それぞれのサロンは、朝廷の崇徳派、後白河派を巻きこみ、宮中は次第にドロドロに泥沼化し険悪になっていきました。
摂関家の藤原ファミリーの確執も関白の位(今の首相)をめぐる争いから始まりました。
西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第三話)_a0212807_22571950.jpg朝廷の摂関家、藤原家ファミリー内も‘長男の忠通とその父忠実=次男頼長’が、関白の位をめぐり激しく対立しました。
この騒動に朝廷の警護役(北面武士)であった武家集団が、武力を背景に台頭し新興勢力の‘平家と源氏’を巻き込こんでいきました。
この皇位継承をめぐる朝廷内の権力闘争は、武士勢力も平家は平家ファミリー内で崇徳派と後白河派とが対立し、源氏もまたファミリー内で崇徳派と後白河派が、抗争を始めました。
そして、宮中・摂関家・武家集団すべてを巻き込み、オール崇徳派とオール後白河派に分裂して、骨肉の争いとなり、朝廷内は親子兄弟が対立して敵味方となり、ハチの巣を突いたような騒動になりました。
一方、宮中内の女院の確執も、鳥羽天皇の寵愛が、璋子から16才若い得子のほうへ移り、得子が、皇子(後の近衛天皇)を生んだことで、美福門院グループは、勢いづきました。
さらに朝廷の事態をさらに複雑にしたのが、白河法皇に仕えていた関白の藤原忠実でした。
関白忠実については、後ほど詳しく述べますが、彼の愛娘(嫡子で一人娘)彰子(やすこ)は、39才になってもまだ独身(ひとりみ)でした。
西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第三話)_a0212807_234108.jpg
関白忠実は、一人娘の彰子(やすこ)を幼いころから溺愛し、いずれ白河法皇の孫である鳥羽天皇の皇后(入内させ中宮)にするつもりでいました。
関白忠実は、当時の最高権力者であった白河法皇に無断で15才の鳥羽天皇に23才の彰子(やすこ)を入内させる約束をし、これが白河法皇の逆鱗に触れて、彰子の入内(中宮になる)話は、消滅しました。
彰子の代りに白河法皇は、17才の璋子(たまこ)を鳥羽天皇の中宮(皇后)にしました。
実は、関白忠実の愛娘彰子の入内話を白河法皇が、ニベもなく拒否した裏には、法皇と関白との抜き差しならない深いワケがありました。
西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第三話)_a0212807_2371422.jpg白河法皇は、愛妾祇園女御の連れ子(養女)であった璋子(たまこ)を5才の時から自分の元で育てかわいがり溺愛しました。
璋子は、美しく成長し、10代半ばになると還暦(60才)を過ぎた法皇との良からぬウワサが、宮中で広がりました。
いつまでも璋子を自分のそばに置いてはおけないと思った法皇は、関白忠実に彼の長男忠通との婚姻を持ちかけました。
当時の白河法皇は、「賀茂川の水とスゴロクの賽と山法師だけは思うようにならない。」と自らシャレを言うくらい天下のことは、何でも自分の意のままにできる権力を持っていました。
そんな白河法皇に、関白忠実の返事は、いくら法皇が頼んでも「それだけはお受けできません。お断りいたします。」でしたから、白河法皇の堪忍袋の緒が切れました。
白河法皇をいたく立腹させるほど関白忠実が、息子忠通と璋子との結婚を頑(かたく)なに拒んだものは、いったい何だったのでしょうか?(第四話に続く
by blues_rock | 2012-06-06 00:14 | 人生/愛(Love) | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード

by blues_rock