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心の時空

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a day in my life

西行と璋子(たまこ) ‥ 長い余話(第二話)

保元の乱(ほうげんのらん)は、待賢門院璋子が、亡くなってから11年後の1156年に勃発しました。
天皇の皇位継承をめぐる朝廷の内部抗争(権力争い)で、璋子(たまこ)の子供二人を中心にした二大勢力による京都洛中での内戦でした。
一人は、璋子の長男である崇徳上皇(白河法皇との子供)、もう一人は、四男の後白河天皇(鳥羽上皇との子供)による朝廷を二分した権力争いでした。
璋子の死後、自分の子供二人が、皇位をめぐり血で血を洗う兄弟の諍(いさか)いするとは、璋子は想像もできなかったでしょう。                               (下写真 : 璋子の長男、崇徳天皇)
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ここに至る歴史の経過を記録に残された史実により述べたいと思います。
白河法皇の意向で、藤原璋子は、17才のとき、白河法皇の孫15才の鳥羽天皇に入内(じゅだい、中宮=皇后になること)しました。
2才姉さん女房であった璋子と鳥羽天皇は、仲睦まじく二人の間に 7年で 7人の子供が、誕生しました。
後ほど詳しく説明しますが、5才の養女璋子を育てたのが、義父白河法皇(第72代天皇)で、夫の鳥羽天皇=第74代天皇、長男の崇徳天皇=第75代、さらに四男の後白河天皇=第77代天皇と璋子は、常に天皇に囲まれて暮らしていました。                           (下写真 : 璋子の四男、後白河天皇)
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だが、第76代の近衛天皇は、鳥羽天皇の胤(たね)ながら、藤原得子(なりこ)後の美福門院得子(びふくもんいんなりこ)が、生んだ子供でした。
璋子より16才若く、美人の誉れも高かった得子(なりこ)は17才の時、鳥羽天皇に見染められ入内しました。
鳥羽天皇は、皇位を崇徳天皇(白河法皇と璋子の子供)に譲位すると上皇となり、鳥羽院に引きこもり得子を寵愛しました。
鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた得子が、皇子(後の近衛天皇、1139~1155没、享年17才)を産んだことにより朝廷内は、対立し風雲急を告げる展開になりました。        (下写真 : 璋子の夫、鳥羽天皇)
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鳥羽上皇の目の上の頭出腫(たんこぶ)であった白河法皇もすでにこの世になく、鳥羽法皇となると、自分が、譲位した崇徳天皇を今度は、無理やり退位させ、得子との間に生まれた 2才の近衛天皇を即位させました。
幼い近衛天皇の後見人として鳥羽法皇は、朝廷内に院政を敷きました。
近衛天皇は、生まれつき病弱で1955年に17才で病死、翌1156年には、後見人の鳥羽法皇も亡くなりました。
鳥羽法皇が、亡くなるのを待つかのように、同年1156年に保元の乱は、勃発しました。
朝廷を真っ二つにした皇位継承権をめぐる暗闘は、政権の主導権争いで摂関家の藤原家を分裂させ、親子兄弟間にあったドロドロの愛憎は、1156年鳥羽法皇の逝去でついに沸点(ピーク)に達しました。(第三話に続く
by blues_rock | 2012-06-05 00:00 | 人生/愛(Love) | Comments(0)