ANTICHRIS♀(アンチ・クライスト) シネマの世界<第29話>
ANTICHRISTのスペル最後の「T」を敢えて「♀(女の性記号)」としているのは、トリアー監督によるメッセージと言えます。
「映画は、靴の中の小石でなければならない」が、トリアー監督の映画に対するポリシーだとか‥実際この映画を見終わった後、映画館を出てもずっと靴の中の足裏に小石を踏んでいるような心地悪い感触がありました。
映画のストーリーは、愛し合っている夫婦(‥お互い相手は自分を愛していると思っている)の葛藤と同時に異性としての諍(いさか)い、さらに性愛の虚無と疑念、セラピスト(夫:ウィレム・デフォー)と患者(妻:シャーロット・ゲンズブール)の関係と二人の間は複雑で、これが次第に折り重なっていきますから、この映画を見る人は、精神をニュートラルにして覚悟して映画館に行くべきでしょう。
妻役のシャルロット・ゲンズブールのキツネが憑(つ)いたような演技は恐ろしいくらいで「カンヌ映画祭主演女優賞」受賞も頷(うなづ)けます。
彼女の演じる鬱病の妻は‥恐怖(怯え)・狂気・性愛(セックス)・母性・激情・暴力・自虐・不信・苦悩・悲嘆・殺戮
たとえば妻は、セックスの最中に突然暴力をふるい、夫が逃げないよう彼の左足首にドリルで穴を開け大きな砥石の鉄棒を通し工具を投げ捨ててしまいます。
また苦悩と悲嘆で自虐し、ハサミで自分の女性器を切り落としたりもします。
シャーロット・ゲンズブールの真迫の演技は、彼女自身が本当に精神を病んでいるかのようでした。
トリアー監督も鬱病の持病があるそうで、ハンディカメラを使った暗いトーンの映像は、監督自身の心象風景を映しているようでした。
映画冒頭シーンのスローモーションによるモノクロ映像が美しく、見入ってしまいました。
映画「ANTICHRIS♀(アンチ・クライスト)」は、ニーチェのアンチ・キリスト「神は死んだ」を映像で表現しているようにも思えました。
それにしても、映画館で公開される映画の裸体シーンに、陰毛や性器のボカシを強制する“映倫”の愚劣(ナンセンス)な時代錯誤は、どうにかならないものでしょうか?
映画のシーンに映る陰毛や性器をボカすようせまる“映倫”の卑猥(ひわい)さこそ、私はワイセツな人たちの思想だと思います。
大島渚監督の映画「愛のコリーダ」(1976、フランス制作)の日本版は、“映倫”のカットとボカシでズタズタにされ、映画が台無しにされたので、仕方なく旅行先のパリで完全ノーカット版「愛のコリーダ」(フランス語タイトル「官能の帝国」)を見て感動しました。
いつの世も女と男の性愛が奏でる刹那(せつな)の狂想曲の終わりは、死か倦怠あるいは頽廃か‥日本版タイトルの「愛のコリーダ(闘牛)」だけが、フランス版のタイトルより洒落ていると思いました。