死にがいのある場所
私にブログを書く明確な理由や目的は、ありませんが、時間のあるときに少しずつ‥心に感じたこと、ふと思ったこと、今考えていることなどを忘れる前に、自分のためのメモとして、併せて友人や親しい知人ならびに拙プログを読んでくださる方への私のメッセージとして書いています。
このところ記憶力が衰え‥物忘れもひどくなり、自分自身のための自己防衛策‥自分は、何者であったかの手垢のようなもの、つまりいつ認知症を発症してもよいように今から準備しているようなものかもしれません。
人は、心に残る大切なことは、だいたい記憶しているものです。
私たちが、すぐに忘れるような日常の些細(ささい)な出来事は、忘れてもくよくよ気にせずに、自分が大事と思わないことは「どうでもよいこと、つまらないこと」と放り投げ、安穏気楽な気持ちで暮らしましょう。
認知症の方の不安心理は、「大雪原にただ一人取り残されたような恐怖」なのだそうで、まだ医学界でも病理の解明がほとんど進んでいない病気と言われています。
私がデイサービスで接している認知症の方に共通して感じるのは、時おり顔に現れる不安な表情、とくに目に現れる“不安に脅えた”表情です。
話は変わりますが、「死にがいのある場所」という言葉は、先日の日本経済新聞夕刊に掲載されていた富山市のデイケアハウス「このゆびとーまれ」取材記事で見つけました。
「生きがい」という言葉は、日ごろから頻繁に耳にしますが「死にがい」という言葉は初めて知りました。
生者必死‥生まれた人は、必ず死の時を迎え、王侯貴族も奴隷も富裕な人も貧乏な人も‥1人の例外なく死ぬ時が来ます。
或るとき、一緒に救済活動するシスターが、マザーテレサに「次から次に運び込まれるこの方々は、もう助からない人たちばかりです。マザーはどうしてこの方々を救済するのですか?」と尋ねました。
マザーテレサは、「この方々の過酷な人生の最期に‥自分は生まれて良かった、幸せだったと心から感じさせ、死なせてあげたいからです。それ以外の理由はありません。」と言われたそうです。
この歳まで何も考えずノホホンと生きてきて、恥ずかしい限りですが、私の「死にがいのある場所」探しは、これからも続きそうです。