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心の時空

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a day in my life

海から見た博多

博多を海から見たくなり、船に乗りました。
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博多港の須崎中央ふ頭から博多湾沿いに箱崎沖に出て、海の中道・志賀島を右舷に眺めながら、玄海島・能古島の前で左に曲がり、1時間半かけての博多湾周遊クルージングでした。a0212807_15145948.jpg
博多湾の外海は、玄海灘です。
玄界灘とは、黒い荒海を意味し、海の向こうに壱岐・対馬があり、さらにその向こうに朝鮮半島があります。
博多の街は、博多湾の入り江に沿って東西に広がり、冬になるとユーラシア大陸からの強い北風が日本海を渡って博多に直接吹き付けるので、太平洋沿岸にある関東・関西の他の都市より体感で寒い日が続きます。
当日天気が悪く、風も強かったため、博多湾クルーズを満喫したとは言えませんでしたが、700年前鎌倉時代に元(モンゴル)の皇帝フビライ・ハーンの大船団(大軍勢)も同じような位置から古い博多の地を見ていたと想像すると「元寇」の歴史も「防塁史跡」も身近に感じられました。
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フビライは、当時の日本政府(鎌倉幕府)に対して、元の支配下に入り属国になるよう、再三再四日本政府に威圧的な外交文書を送っていましたが、政府は外交使者を切り捨て、回答せず無視していました。
アタマに来たフビライは、日本に対し2度にわたり大軍勢を派兵し攻撃しました。
a0212807_15171324.jpg1274年文永の役(戦争)には、900の船と3万人の軍勢を派兵しました。
迎え撃つ鎌倉幕府軍は、大宰府を中心とした九州の御家人(武士の元始)でした。
彼らはのどかな「やあやあ!我こそは‥どこのだれそれ」と一対一で戦う戦法であるのに対し元軍は鉄砲・手榴弾など火薬武器で攻撃しました。
圧倒的な勢力に太刀打ちできなかった鎌倉幕府軍でしたが、元軍はあっという間に兵を引き上げました。
この派兵は、フビライによる日本への「威圧偵察」のためであったと言われています。
この文永の役(戦争)で恐れおののいた鎌倉幕府は、全国の御家人を博多に集め、博多湾沿岸には元寇のための防塁(下は生の松原防塁跡の復元)を20㌔にわたり築きました。
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1280年弘安の役(戦争)には、フビライは総勢14万人を派兵しました。
迎え撃ったのは、専守防衛に徹した4万人の鎌倉御家人軍団でした。
相当に激しく残忍な戦闘であった様子が、歴史書・歴史絵巻に記録されています。a0212807_1518451.jpg
結局モンゴル艦隊と軍勢は、博多湾で暴風雨に遭い、朝鮮半島まで帰れたのはわずか2~3万人程度の兵であったと歴史の書物にあります。
博多の海は、モンゴルの支配者フビライの野望のため命令に従い、異郷の地で兵として戦い死んでいった多くの名も無きユーラシアの民たちの青山(お墓)でもありました。
by blues_rock | 2011-11-17 21:18 | 社会/歴史/思想 | Comments(0)